経験的事実と論理的推論から何かをやりたい人。

『万引き家族』の評判はなぜ割れたのか - パルムドール受賞からオウム死刑執行まで

パルムドール受賞後

 『万引き家族』という映画について、パルムドール受賞後から様々な意見が飛び交った。個人的に、2004年公開の『誰も知らない』を観てから是枝監督のファンで、タイミングを見て感想をまとめたいと思っていたのだけど、既に一つの記事を書くのに十分な情報が溜まってきてしまった。そこでひとまず、これまでの出来事を時系列的にまとめることにした。これはまだ感想と言えるものではないけれど、差し当たり今までの流れを整理したいと思ったのだった。そして最後には、映画含む「物事の価値」はいかにして決まるのか、という視点にも触れてみたいと思う。

 まず、「是枝監督がカンヌ映画祭パルムドール受賞」のニュースが飛び込んできたのは、2018年5月20日のことだった。その後、先行上映は6月2日から、一般公開は6月8日からと知った。 www.oricon.co.jp

 そんな折、どういう訳かパルムドール受賞直後くらいから、「是枝監督は反日だ」「『万引き家族』は日本人を貶めている」「犯罪を正当化している」などの批判的なツイートがTwitterに溢れた。

 映画の公開前にも関わらず、こうした意見が出てきたのは、是枝映画を今まで観てきた自分としては意外だった。調べてみると、是枝監督が批判される根拠として、次のような記事が出てきた。 japanese.joins.com www.data-max.co.jp

 「血が混ざってこそ家族なのか、日本の家族は崩壊したが…」という記事では、次のようなコメントが書かれている。

「日本は経済不況で階層間の両極化が進んだ。政府は貧困層を助ける代わりに失敗者として烙印を押し、貧困を個人の責任として処理している。映画の中の家族がその代表的な例だ」

「共同体文化が崩壊して家族が崩壊している。多様性を受け入れるほど成熟しておらず、ますます地域主義に傾倒していって、残ったのは国粋主義だけだった。日本が歴史を認めない根っこがここにある。アジア近隣諸国に申し訳ない気持ちだ。日本もドイツのように謝らなければならない。だが、同じ政権がずっと執権することによって私たちは多くの希望を失っている」

 こうした内容から是枝監督は、「日本政府や安倍政権を批判している」「アジア近隣諸国に謝罪すべきと考えている」などと見られ、<反日左翼>であると捉えられ、映画そのものに対しても<反日映画>という評価がされているようだった。

 一方で、森友・加計学園と結びつけた意見や、是枝監督を日本政府が祝わないのはそれこそ恥だ、というような主張も見られた。

先行上映後

 正直な所、自分も是枝監督の一挙手一投足を追っている訳ではないので、まあ少し左翼的な考えに染まってしまったのかな、くらいには考えていた。しかし、それで映画の評価まで決まってしまうことは、少なくとも自分の中ではない。深作欣二大島渚など、反権力的なテーマながら面白いと思える映画を撮った人も、数知れないからだ。そんなことを考えていると、Twitterで興味深い現象が起きていた。先行上映を観た人々の感想が上がり始めていたのだが、おおよそ絶賛するコメントが大勢を占めていたからだ。その中には、<反日映画>という見方を批判する人も多かった。

 6月上旬頃、Twitterで「万引き家族」と調べてみると、「観ずに批判するツイート」や「観て高評価するツイート」や「見なければ分からないだろうという旨のツイート」などがよく見られた。それを見て自分が思い出したのは、アニメ映画の『この世界の片隅に』が出た時に、「戦争映画なんて陰気くさいから見ない」「戦争を美化している」「太極旗が出るから反日的だ」といったことを観ずに主張する人達だった。まさしく自分がいま見ているのは、『万引き家族』という映画を観ずに内容を断定し、批判する主張ではないか。そんなことを思って、自分はTogetterに次のようなまとめを作った。 togetter.com

 このまとめを作ったのは6月2日のことで、まだ映画の一般公開はされていなかった。実を言うと、的外れに見えた批判を利用して、話題作りをしたいという考えもあった。また、この状況をあえて可視化してみるのも意味があるのでは、とも思ったのだった。このまとめは思った以上に反響があって、7月7日現在で3万viewを越えた。また、次のようなまとめも派生的に作られ、こちらは10万viewを越えている。 togetter.com

 やがて、当の是枝監督から、次のブログ記事が書かれた。6月5日と6月7日のことだった。『万引き家族』への批判に関心がある方は、一度読むことをおすすめしたい。 www.kore-eda.com www.kore-eda.com

 この中に、是枝監督は<反日>だなどという主張への反論とも読める内容が書かれていた。要するに、記事の翻訳ミスなどを経て、言及していない語句が付け足された記事が拡散されていたようだ。少なくとも、政権批判や戦後補償の話は映画の主題ではなかったのだ。言われてみれば、是枝監督のインタビュー映像などはネットでも見れたりするのだが、批判対象になった発言は実際には聞いたことがない。  映画を観た人のレビューを見ていても、そもそも政治的な話がほぼ出てこなかったので、右派左派を巡っての政治的主張の応酬は、やはり見当外れなのだろうと推測できてしまった(そもそも反日の定義って何だ、誰が決めるんだという話もあるが)。こうしたことを考えてみると、是枝監督のコメントに尾ひれを付けた中央日報に問題があるようにも感じられた。しかし、「このくらいのロストイントランスレーションは至るところで起きていると思ったほうがいい」という監督の言葉と、別の韓国紙にある「映画が絶望と痛みという井戸から汲み上げられるものならば、私はその井戸を家族に求めている」という一文に感銘を受けたという話から、あまり取り立てるべきことではないようにも思われた。

 その後、「公権力とは距離を置く」と言いつつも助成金を貰っていたことへの批判なども出てきたが、当初言われていた「是枝監督は反日だ」「『万引き家族』は日本人を貶めている」「犯罪を正当化している」のような主張を思うと、まず論点が変わっているし、随分大人しい主張になったものだなと思った。この辺までの経緯は文春の記事にもまとめられているが、個人的にはこの記事の意見に賛同する部分が多い。また、文化庁から受けた助成金2000万円は、ヒットしたら基本的に返すものらしい。 bunshun.jp togetter.com

 以前から是枝監督に興味がある人なら、監督がテレビや映画界についてやや批判的であることも知っていると思う。けれども何も知らない人達は、「偏向報道」などに「加担」する側として是枝監督を批判していて、何を馬鹿なことを言ってるんだと正直思ってしまう。実際の所、是枝監督のことを以前から知る方にとっては、「反日」という批判をされることには、苦笑している人が多いのではないだろうか。

一般公開後

 とにかく、そうこうするうちに一般公開の日を迎え、自分は6月10日に鑑賞してきた(やっと映画の話ができる)。『誰も知らない』を彷彿とさせる要素も何か所かありながら、所々では監督得意のドキュメンタリータッチを崩し、やや劇的な編集をされたカットもあり、楽しむことができた。また、是枝監督の観察眼にも改めて驚かされた。そして、政府のせの字も無ければ、権力のけの字も出てこないことに、思わず笑ってしまった。犯罪を正当化しているなんて意見もあったが、結末も常識的な終わり方をしている。

 確かにこの映画に出てくる家族自体は、現実には存在しない人々だ。けれども、一つ一つのパーツを見ていけば、元になったと考えられる事件をいくらでも挙げることができるだろう。リアルタイムにも様々な事件が起きた。一般公開直前の6月6日には、目黒で5歳の女の子が虐待死した事件が発覚した。公開日の6月8日には、佐賀で「リアル万引き家族」なる事件も起きてしまった。

www.huffingtonpost.jp

 監督のブログにあるinvisible people(見捨てられた人々)という視点で見るなら、6月9日に起きた新幹線での殺傷事件や、6月24日に起きたブロガー刺殺事件や、6月26日に起きた元自衛官による小学校銃撃事件も、映画に関連した事件として取り上げられるだろう。これらは日本で起きた現実の出来事だ。日本の良い所や魅力は自分なりに知っているつもりだし、自国を誇るのはどこの国でもやっていることだろう。しかし、日本が全く何の問題も抱えていないかと言えば、また別の話になる。 www.asahi.com www.itmedia.co.jp www.asahi.com

 その後の7月6日には、オウム事件の死刑囚7人の死刑が執行された。しかし、オウム事件の真相も、結局の所明らかになっていない部分というか、「臭いものに蓋をされた」所があるのではないだろうか。なぜなら、少なくとも事件が発覚する以前、麻原彰晃はバラエティ番組などにも出ていて、世間的には著名人的扱いも受けていたからだ。 headlines.yahoo.co.jp

 また、死刑執行された信者の何人かは、一連の事件について率直に話す姿勢が見受けられた。例えば中川智正は、金正男暗殺後にVXガスの論文を出していたりもする。 www.wynned.com

 『万引き家族』を観てから「オウム死刑執行」のニュースを聞いた時、そしてその後にオウムへの批判が改めて展開されるのを見た時、「ああオウムの人々は、世間からは理解できない<向こう側>に追いやられたのだな」と思った。オウムの後継団体である「アレフ」には、今でも毎年100人程度の人が入信し、全体の規模は1500人程度にもなるという。思うのだが、「反社会的」というレッテルを貼られた団体にわざわざ入る人は、<こちら側>の日本社会で生きて行けなくなった人々なのではないだろうか。過去に遡れば、そもそもオウムが全盛だった時期は、バブル景気からバブル崩壊への時期とも重なっている。だとしたら、オウム信者を厳しく批判しても、恐らくオウム信者は簡単に<こちら側>へは戻ってくれないだろう。物事を何かと<反日>と結び付けたり、あるいは<軍国的>だとか言って意見を押し込めるのも、却ってカルトを生み出しやすくなるのではないだろうか。  もちろん、オウムが起こした事件は決して許されるものではない。しかし、オウムのような事件を防ごうと思うなら、単にオウムを批判するだけではなく、オウムに入信する人達のセーフティネットも考えなければいけないのではと思っている。それは個人的に言えば、『万引き家族』の人々にも当てはまることで、彼らが作中で犯したことは許されないが、防ぐためには彼らに寄り添わなければ難しいだろうことと同様だ。  そして思うのは、『万引き家族』を観ずに批判する人達が多くいるという事実は、この映画が単なるフィクションではないことを逆説的に示すのではないかということだ。劇中における<万引き家族>の人々が社会からまともに認知されなかったのと同様、作品としての『万引き家族』をロクに調べずにレッテルを貼る人達がいることは、今そこにある事実である。個人的には、映画そのものの評価というよりも、社会に少なからず議論を起こしたという点で、今までの是枝作品にはない特異な性質を感じてもいる。そしてそれは、映画が持つ面白さの一つでもあるように思う。

「物事の価値」はどのように決まるのか

 最後に、そもそも「物事の価値」はどのように決まるのか、ということを考えてみたい。まず前提としたいのは、物事の価値は主観的に決まるものだということだ。物事の価値は物差しで測れるようなものではなく、人それぞれの心の内で決まるものだろう。だから例えば、世間的に評判がいい映画を観ても感動しないことはあり得るし、逆に世間が評価しない映画に自分は価値を感じることもあるだろう。だから、基本的には価値の問題で論争するのは無意味だとも言えよう。

 では、物事の価値が主観的に決まるものだとして、それはどのような過程を経て決まるのだろうか。映画の場合、まず第一には映画を観た経験を通じて、価値が決まるはずだろう。しかし現実には、それ以外の影響を受けることも多いように思う。例えば『万引き家族』の場合、幸か不幸か一般公開の前から、様々な話題と関連づけて論じられてきた。それによって、映画の評価が割れた部分は大きいのではないだろうか。個人的に『万引き家族』は、主張を明確な形では言わない映画だと考えているが、むしろそういう性質を持つからこそ、様々な意見と結び付けられたのだと思う。実際、映画に好意的と思われる評価を見ても、書くことは人によって様々だ。世間一般的には、「映画の価値は映画の内容だけから決まる」と考えられているように思うが、もしかするとそうした考え方には修正が必要なのかもしれない。

 とにかく、「映画の価値は映画の内容以外の影響も受ける」と考えてみよう。すると、例えば『万引き家族』を反日的だと批判する人は、是枝監督の<反日的>発言などの影響を受けていると自然に推測できる。映画が犯罪を正当化していると言う人は、過去に見聞きした似た例を思い出して、嫌悪感を抱いたのかもしれない。また、映画で描かれた人々に共感できるかどうかは、過去の自分の経験や伝聞にも依存するだろう。さらに、映画の題材が「実話」の場合は、そのことも映画の価値に影響を与えると考えられる。例えば、何も知らずに観た映画が後で実話だと知った時、その映画を撮った意義について考え直すこともあるだろう。特に『万引き家族』の場合、様々な点で現実の出来事をモチーフにしているので、当然その評価は普段見ているニュースなどの知識にも依存するはずだ。そのように事前の情報などから結論を「先取り」することは、特に珍しいことではない。実を言えば、誰もが日常的にやっていることだ。

 さて、物事の価値はまず主観的に決まるものであり、さらに個人の経験や伝聞に影響される可能性を指摘してみた。では、そのように見出された「物事の価値」について、正当性を問える場合はあるのだろうか。自分は先に、「物事の価値は主観的に決まるもの」であり、「基本的には価値の問題で論争するのは無意味」だと書いた。しかし一方で、観てもいない映画の情報を伝聞で聞いただけで、その映画を素晴らしいものと考えるような場合は、判断材料が不十分なように思われる。この場合は、価値判断の正当性を問題にできるのではないだろうか。伝聞による価値判断をより確かにする1つの方法は、自分で実物を「見知る」ことである。映画を実際に観て、改めて素晴らしいと思った場合には伝聞が正当化され、そうでもなかった時には棄却されることになるはずだ。そう考えると、価値判断の正当性を問う時には、対象を実際に見知っているかが重要になると考えられる。  だから『万引き家族』にしても、観る前から伝聞で素晴らしい映画だと考えたり、酷い映画だと考えるのは自由だが、それは言わばある種の予想のようなもので、その評価に説得力を持たせるにはきちんと鑑賞するしかないはずなのだ。そして、実はそれと似た主張は、『万引き家族』の中でも訴えられていることだと思っている。今となっては、日本だけでなく世界での興行も好調で、映画のレビューも絶えず増えている状況は良いことだと思う。公開前の時点であれだけ様々な意見が飛び交っていた一方で、やがて鑑賞した人々によって広がった評価を見て、ひょっとしてこれは世の中を変える映画なのかもしれないと思った。

<参考>

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オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義

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『この世界の片隅に』を読み解くための『現代現象学』(2)

 その1からの続き。

irigata.hatenablog.com

 

 

 それでは、現象学では「美しさ」や「正しさ」などの価値については、どう考えるのだろうか。経験に基づいて価値を考えるというのは、あまり馴染みのない考え方かもしれない。まず一例として、『この世界の片隅に』の感想を一言で言いづらい理由として、「あまりにも多様な感情を抱かせるから」だという意見を取り上げたい。

 これはこの映画にそれだけ、様々な感情を抱く場面があったということだろう。誰かのしょうもない失敗を見た時、空から大量の爆弾が降るのを見た時などに、個人差はあれど人間は何かしらの感情を抱くだろう。思わず笑った時には「笑える」や「楽しい」、恐怖を感じた時には「怖い」や「悲しい」と感じる。こうした「感情」は特に思考によって生まれるものではなく、自分の意図とはほとんど無関係に経験されるものだ。

 そしてその感情は、物事の真善美を判断する時にも重視されるのではないだろうか。世間的に価値が高いと言われる芸術を見ても何も感じなかった場合、個人的にはその芸術に価値がないと判断するだろう。逆に世間は評価していないが、自分は価値を感じるものが存在することもあり得る。重要なのは、価値について語る場合、現実世界を越え出た超自然的原理としての「真善美」を前提にするよりも、現実の知覚や感情が価値の土台を成していると考えた方が、日常の経験に即して考えやすいということだ。安易に「美しい」とか「正しい」といった言葉で物事の価値を語ろうとすると、その価値の背景が見えにくくなってしまうが、価値判断をするためには、先に何かを経験する必要があるはずだ。

 哲学の世界では、「~である」から「~すべき」は導かれないとして、事実と価値は区別しなければならないという考え方もあり、「ヒュームの法則」という名前まで付けられている。確かに、事実から価値を導く時には、まず例外なく主観が入ってしまう。つまり、論理的推論としては間違っていることになる。しかし、そこで議論が終わってしまうと、普段日常的に行っている価値判断の過程を考えることができない。そうした問題にもアプローチできるのが、経験的事実を起点とする現象学の考え方なのである。日常生活での楽しみや戦争の被害などを見て幸福や不幸などを感じることは、例外や個人差はあるだろうが、ごく一般的な経験なのではないだろうか。すると、何かしらの物事に価値を見出す経験は、個々人の主観的な「認知」に関係していると考えられる。そして『この世界の片隅に』では、様々な観客に様々な感情を経験させる場面が、緻密に散りばめていたと言えるのではないだろうか。

 

 少し話は逸れるが、他に安易に「還元」されていると思う言葉として、「日常」と「戦争」という単語も取り上げたい。『この世界の片隅に』の感想として、「日常の中に戦争の影がじわじわ入ってくるのが怖かった」というものを見たことがある。しかし、そもそも日常や戦争という単語は何を指しているのだろうか。

 これについても、まず日常や戦争という概念が先に存在している訳ではないだろう。料理や洗濯といった行為などをまとめて「日常」、軍艦や爆弾による戦闘行為などをまとめて「戦争」と言っているはずである。それがいつの間にか「日常」や「戦争」という記号で物事が語られるようになったのではないか。「日常の中に戦争が入ってくる」という表現は、そうした記号的表現が物事をうまく区別できず、機能していない状況から生まれているのではないだろうか。『この世界の片隅に』に描かれるものの多くは、日常にも戦争にも関係があるものとして登場していたはずだ。そうは言いつつも、この記事でも日常や戦争という語句を多用してしまっているが、あくまでもそうした語句は、様々な物事をカテゴライズするための語句だと考えた方がよいと思う。ある語句がどう定義され、どう説明に使えるかという問題は、政治学などに触れる時にもよく疑問に思うのだが、記号としての言葉の問題はしばしば無視されがちな気がしてならない。

 

 

 

 そして、この映画を語る際にしばしば取り上げられるのが、人生についての(どう生きるべきかなどの)問いである。幸運にも『現代現象学』の中でも、「人生の意味」を問う章が設けられている。哲学という学問は、意外にも人生について考察することが少ないのだが、この本では珍しくストレートに扱っている。人生の意味というのも、論理的推論だけでは恐らく何も語りようがない。あるいは、人生に生きる意味などない、目的も存在しないという、ニヒリズム的な結論を導きがちである。実際、ある事実から「論理的に」何らかの価値を導くのは、ほとんど不可能だろう。

 だがそうは言っても、距離を置いてはならないと感じるものが、誰にでもあるのではないかと本では問う。親にとっての子供や、芸術家にとっての芸術が例えばそうであり、それは『この世界の片隅に』にも通じるところがあるだろう。径子さんにとっての晴美ちゃんや、すずさんにとっての絵を描く行為がそうである。これは論理的推論というよりは、実際に何に価値を感じるかという「認知」を元にした考え方と言えるだろう。とはいえ、そうした大切なものが失われる可能性についても考えなくてはならない。人生の「脆さ」を前にして、なおも意味ある人生というものを考えることはできるだろうか。

 

 これは、「哲学を学ぶ意味」にも通じる問いである。人間は普段の日常的な経験から、様々な推測をしながら生活している。しかしそうした推測は、当然間違える可能性がある。それは人間が不完全な存在だからであるが、とは言え「世界に確かなものなど何も無い」と認める必要もない。恐らく論理的推論「のみ」を頼る限りでは、そういう思考に陥ることもあるだろう。それでも、「経験そのもの」が存在することは疑いようのない事実のはずだ。そこから推測できることは無数にある。それでも強硬に「世界に確かなものなど何も無い」と言うならば、店に行けば食品が売ってるから買いに行こうと考えるような、日常的な推測も無意味になる。しかしそうした推測は、大抵の場合当たっている。仏教でいう涅槃の境地にでも至れば別かもしれないが、まず間違いなくほとんどの人間は、日常的な経験まで疑うことは不可能だろう。ただ、あくまでも経験する限りでの世界が存在するという結論は、ある意味で信仰に近いものを含んでおり、態度が哲学を学ぶ前に戻ってしまうことにもなる。

 しかし、例えば科学の驚くべき整合性などを考えても、経験を元に構築される世界像は、現実の世界と近似的であれかなり一致している、と考える方が合理的ではないだろうか。物を投げれば加速度的に落ちること、体には血液が巡っていることなどを疑うと言うのであれば、きちんとした「疑うべき理由」も示すべきではないのか。それでも頑なに「物を投げれば落ちるという経験も信用できない」などと言うならば、試しに崖の上から飛び降りてみればいい。飛び降りれば地面に落下し、怪我をすれば血を流すはずだ。飛び降りるのを躊躇うのなら、経験的事実を多少なりとも認めていることになる。それでも「経験的事実は嘘かもしれない」と言い張ることはできるが、たとえ五感で感じる経験が幻覚のようなものに過ぎないとしても、やはり「経験そのもの」まで疑うことは難しいだろう。不確かなことがあることは認めても、何も語りえない訳ではないというのは、そういうことである。

 そして、こうした立場には生きる上でのメリットもあると考えられる。まず人間の不完全さを自覚した者は、物事についての真理を手にしうると考える独断論に陥ることがなくなる。また、経験を通じて事実や価値の存在を認めるならば、事実や価値について何も語りえないと考える懐疑論をも退けることができる。そして、そうしたことを了解した人々は、やがてそこから他者と共通了解を作っていき、コミュニケーションを図ることも可能なはずである。

 さてここで、『この世界の片隅に』に戻ってみよう。先程の結論を振り返ってみると、自らの不完全さを自覚しながらも、この世界に生きることを受け入れる姿勢とは、まさしくこの映画のラストにも通じる姿勢なのではないだろうか。すずさんを含む登場人物たちは、恐らく独断論懐疑論からはかなりかけ離れた立ち位置にいたはずである。また、あの映画によって感情を動かされたと考える人々は、具体的にどのような場面でどう感動したかを共有することで、互いに相互理解をしていると考えられる。

 

 

 話をまとめよう。現象学においては、人々が見出す様々な価値の背景には、経験的事実が基礎にあると考える。逆に、現実離れした観念的な「真善美」については、究極的には考えない。一方、『この世界の片隅に』では「一言で語れない」といった感想をよく見たが、これは感想を簡潔な記号的表現に還元しようとするから難しくなるのではないか。多くの「片隅」が集まって「世界」が出来ていることを理解したならば、物事の大枠をいきなり掴もうとするのは避けるべきだろう。それよりは、事実から価値を見出す経験に注目し、映画でどのような感情をどの場面で経験したかを丁寧に追う方が、感じたことを上手く説明しやすくなるのではないだろうか。そして、この映画を通じて人生の意味をも問う時、人間の不完全さを認めながらも生きることを受け入れる姿勢が、この映画を読み解く重要なヒントになるのではと考えている。

 

 映画における事実の羅列から価値が生まれる現象を考察するというので、できればモンタージュ理論やコンティニュイティ(連続性)や意味論・語用論などについても書きたかったが、このくらいにしておきたい。断片的な話は以下を参照のこと。

 

 

 

 

 

 前々から映画などを語る際に、「雰囲気がいい」とか「打ちのめされる」とか「胸が張り裂けそう」とか「言葉で言い表せない」などの記号化された言葉に還元することには違和感を感じていた。『この世界の片隅に』の中身を具体的に分析するまではできなかったが、前提となる話はできたのではと思う。

 

 

 

<参考>
片渕須直監督, こうの史代原作, 『この世界の片隅に』, MAPPA (2016)
この世界の片隅に」製作委員会, 『この世界の片隅に 劇場アニメ絵コンテ集』, 双葉社 (2016)
植村玄輝他編, 『現代現象学 経験から始める哲学入門』, 新曜社 (2017)
田口茂, 『現象学という思考 〈自明なもの〉の知へ』, 筑摩書房 (2014)
木田元, 『反哲学入門』, 新潮社 (2010)
S. Weinberg, 『科学の発見』, 赤根洋子訳, 岩波書店 (2010)
A. Sokal, J. Bricmont, 『「知」の欺瞞』, 田崎晴明他訳, 岩波書店 (2012)
富野由悠季, 『映像の原則 改訂版』, キネマ旬報社 (2011)

 

 

  

この世界の片隅に 劇場アニメ絵コンテ集

この世界の片隅に 劇場アニメ絵コンテ集

 

 

現代現象学―経験から始める哲学入門 (ワードマップ)

現代現象学―経験から始める哲学入門 (ワードマップ)

 

 

現象学という思考: 〈自明なもの〉の知へ (筑摩選書)

現象学という思考: 〈自明なもの〉の知へ (筑摩選書)

 

 

反哲学入門 (新潮文庫)

反哲学入門 (新潮文庫)

 

 

科学の発見

科学の発見

 

 

「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)

「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)

 

 

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

 

 

『この世界の片隅に』を読み解くための『現代現象学』(1)

 

 

 

 

 『この世界の片隅に』については、自分なりの読み解き方で、まとまった文章をどこかで書きたいと思っていた。映画を最初に観たのは2016年11月16日。前情報が少ない割にやたらネットでの評判が良く、片渕監督のインタビューを読んだらやけに理路整然としていて、恐らく良い映画なのだろうと期待して観にいった。原作は未読だったし、片渕監督のことも全く知らなかったが、公開1週目で観に行けたのは、今にして思えば幸運だった。

 読むペースを変えられる漫画などと違い、映画は観客を時間的に拘束してしまう所があるが、その2時間はあっという間に感じられた。上手く観せることに成功している映画だと思った。冒頭で子供のすずさんが風呂敷を背負う描写の丁寧さを観た時点でもこだわりを感じたし、日常生活の細かな描写もリアリティを感じた。しかし、こうした映画の特徴だと思うのだが、観た直後は感想を言いにくく、素直に好意的な評価をしていいのかも判断できなかった。

 

 映画の好みというのは本当に人によって分かれるもので、今まで映画好きの人には何人も会っているが、好みが合って話をしている光景をほとんど見たことがない(ラジオとかでコメンテーターによって評価が割れることを考えればいいかもしれない)。エヴァ好きやスターウォーズ好きとかで話が合うのはまだ分かるのだが、単に「映画好き」といった場合には、もっと細かくヒューマンドラマ好きとかグロいホラー好きとかに分かれたりしてしまう。自分は大学で映画サークルに入っていたことがあり、それ以降も映画好きの人には度々会うのだが、「好きな映画」の話の噛み合わなさにはなかなか辛いところがある。かなり主観的な推測ではあるが、純粋に映画好きの人は一人で映画を観ることに抵抗がないばかりか、むしろ気楽でいいと思っている節があるように思う。

 それに関連して、日常会話で「一番好きな映画は何?」という質問にはかなり困ってしまう。物語だけでなく、照明や音響といった演出がいい映画もあるし、異なるジャンルの映画を比べて好きな映画を言っても、「それって自分の好みじゃないの」とか思われて悲しい思いをしたりする。あまり有名すぎる映画を答えてもつまらないし、白黒映画とかを答えたら逆にマニアックすぎると思われるので、適当に最近観て良かった映画を答えたりする。しかし、実際に一番好きな映画というのを考えてみると、どれも一長一短あって難しいというのが本音なように思う。

 

 その点、『この世界の片隅に』が異常だったのは、自分自身もそうなのだが、他の人の感想を見ても、批判的意見がとても少ないということだった。そして感想を見ていると、「戦争は良くないと実感できた」とか「日常の大切さを理解できた」というように、十人十色の捉え方で共感されているように見えた。

 

 しかし、よく考えてみると、確かにあの映画は時代考証もアニメーション表現も学術研究並みに凄かったが、直接的なメッセージを読み取れる場面はあまり無かったのではなかろうか。しかし、それならばなぜ、料理や洗濯をする、空襲警報が鳴るといった事実の羅列から、観客に様々な感情を抱かせ、平均的にも高い評価を得られたのだろうか。「この映画について言葉で語るのは難しい」という感想もよく見たが、個人的にまず考察すべきは、時代考証やアニメーション表現などではなく、「あの映画における事実の羅列からどうして様々な好意的反応が生まれたのか」という点ではないかと思うのだ。また多くの人が共感したということは、『この世界の片隅に』には、多くの人に共通するものの見方や価値観が隠れているのではないだろうか。そこで、この記事では「現象学」という考え方を元にその点を考察し、逆にこの映画を元に現象学の紹介もしてみたいと思う。

 

 

 現象学については、歴史から話すととても壮大になってしまうのだが、ひとまずはそれ以前の西洋哲学の欠点を克服する形で生まれた、というのが自分の理解だ。伝統的な西洋哲学としては、特にプラトンに始まる形而上学が有名だと思う。形而上学では、コップや机といった有形のものや、芸術や政治といった無形のものに対して、「イデア」などの真の姿が存在し、その本質的な概念から物事を理解していく、というやり方を取る。少し違和感のある考え方だが、その後のアリストテレスもその思想をある程度踏襲し、やがてキリスト教神学とも結びつき、伝統的な思考法として近世まで受け継がれることになった(とは言え現代でも、「究極の方程式」とか「芸術は妥協の連続である」などという場合には、暗に「真の姿」が想定されているかもしれないが)。

 とにかく、そうして現実世界から離れた超自然的原理を仮定し、そこから演繹的推論によって「論証」するという思考法が、ヨーロッパでは2000年以上も続いてきたのである。経験的事実による「検証」や、観測結果の不確実性などについても、中世以前の人々はあまり注意していなかったようだ。例えば古代ギリシャアリスタルコスは、様々な天体の観測結果から、太陽と月の直径と距離を計算しているが、観測結果の精度が少し悪かったために、実際の値とはかなり離れた結果を導いている。数学的推論は合っていたが、数値的結論が全く違ってしまったのだ。もちろん、当時は観測精度に限界があるし、統計や誤差評価の方法なども無かったと思うが、あえて現代の目線で見てみると、科学の手法を生み出す大変さも分かって面白い。

 

 科学的探求ですらそんな状態だったので、哲学など他の学問もツメの甘い部分が多かった。例えばデカルトは、一般的には近代哲学の祖とみなされており、「我思う、故に我あり」という言葉はあまりにも有名だろう。しかし、自分の存在は疑えないとしても、知覚から得る世界の情報まで正しいとは限らない(実際、人間の認識能力には限界がある)。そこでデカルトは、「理性」という概念を持ち出して、その理性でもって世界を観察すれば、世界の正しい知識を得られると考えた。これだけ聞くと現代的にも感じるが、実はデカルトは敬虔なキリスト教徒でもあって、神の存在証明なるものまで行っている。そして、「理性」の信頼性も神に求めている節があり、これがその後の啓蒙思想にも続いていくことになる。本当に神が背景にいれば人間の判断も間違えようがなさそうだが、神を根拠にして「理性的に」判断を行うというのは、あまり論理的な主張とは言えないだろう。

 また、「自我」という概念もそこまで絶対的と考えるのは無理があるだろう。ある人の物事の考え方は、その人がいる文化や言語などの影響を受けてしまう。現代人であれば、肉を食べる時には加熱調理して、何か調味料を付けようなどと考える。しかし、原始時代にタイムスリップして生まれた人なら、ほとんど肉をそのまま食べることしか考えられないだろう。そうしたことから現代的な思想では、人間個人よりもむしろ文化や制度のような「構造」が先にあるという思想が生まれた。しかし、文化や言語なども人間がいなければ生まれないものであって、鶏が先か卵が先かという話にも聞こえてしまうし、そうした構造の存在を絶対視してしまうのも本末転倒と言えるだろう。

 ところで、「自我」と「構造」という語句は、『この世界の片隅に』の読み解きにも重要な語句と思われる。この映画で重要な鑑賞ポイントと思われるものに、「片隅」と「世界」の関係がある。この映画は主に主人公のすずさん視点で描かれており、それ以外の視点はなるべく排除されている(皆無ではないが)。これにより物語は、すずさん視点から世界の動きが垣間見えるように構成されている。物語の舞台は基本的に「片隅」が中心であり、一方で「世界」はすずさんの日常風景などを通じて語られるのである。しかし、そもそも私たちが関わる「世界」にしても、形ある実体として存在するというよりも、範囲の限られた「片隅」から窺い知るものなのではないだろうか。つまり世界とは、沢山の片隅が集まって出来ているのではということを、この映画から考えることができるのだ。そして、すずさんという一人の片隅の存在は、同時に世界を構成している一部でもあり、単に受動的に戦争を体験するだけでなく、戦いへの参加などを通じて世界に働きかけようともするのである。

 

 

 さて、19世紀末以降になって、それまでの観念的な思想の潮流に穴を開けた人物にニーチェなどがいるが、その中で新たな哲学(現象学)を創始したのがフッサールである。現象学とは一言で言えば、主観的な経験を起点にして様々な問題に答えようとする学問だ。例として科学における存在論を考えてみる。ニュートンの運動法則というものがあるが、この法則のみを見ればかなり抽象的で、その法則自体が実体あるものとして存在するかは分からない。しかし、この法則の正確さは、適切な検証を行うことで経験的に確かめることができる。物体の落下速度を計測したり、機械の設計に応用したりして、上手くいくかどうかを見ればいいのである。これがアリストテレスの場合だと、「物体運動は力を与え続けなければ止まってしまう」という考え方をする。日常的な感覚では「定性的に」見てこの考えも合っていそうに思える。人工衛星ですら時間が経てば高度が下がって落ちてくるのである。しかし、自然現象をよく観察・検証すると、慣性の法則などを仮定して、ニュートン力学で考える方が、物体運動を「定量的に」説明できるようになる。

 ひとまず一例として存在論を挙げてみたが、現象学が扱うのはそれだけではない。価値判断の正しさや、他人の心の問題についても、経験に基づいて分析を行う。とりわけ個人的に役立っているのは、2017年8月に出版された『現代現象学 経験から始める哲学入門』という本だ。なるべく日常的な経験から哲学的問題を考えていて分かりやすく、かなり最近の文献が豊富に引用されているのも良いと思う。

 

 現象学の重要なワードとしては、「志向性」がある。例えばコップや机を見た時、自分の意識はコップや机といった対象に向かっている。では志向性とは何かしらの対象に向かう意識なのかと言えば、そうとも限らない。誰かがドアをノックした時、その様子から母親かと予想したら、父親だったという経験を考える。この場合、志向の対象は母親だったが、実際にドアをノックしたのは父親だったということになる。このように、志向性には過去の経験などから未知の経験を「先取り」したり、あとでその先取り内容を「正当化」したりする上でも、重要な役割を果たしている。

 これは、『この世界の片隅に』にも応用が利く概念ではないかと思う。すずさんは少し夢見がちな少女で、かつ現実には流されて生きる節があるが、戦争の影が迫っても、しばらくはすずさんに重大な危機が訪れることはない。やがて観客も含めて、料理や洗濯という日常の光景を見せられるうち、こうした生活が「普通」であると感じられるようになる。しかし映画の後半、一線を越えてすずさんが被害に直面した時、「当たり前の日常が続く」という先取りの観念が崩れ、精神的な迷いの世界に入っていってしまう。

 志向性の働きによって確かめられていく「普通」という概念は、自分が何かを考える際の基盤にもなるものである。それが崩れるものだと分かった時には、生きることの意味すら問われることもある。こうしたことは1945年の太平洋戦争終結時のほか、2001年の米同時多発テロや、2011年の東日本大震災の際にも見受けられた。とにかく涙が出たとか、何も手につかなくなったという話はしばしば耳にするし、そうした出来事がきっかけで生まれた書籍や音楽などを挙げれば枚挙にいとまがない。

 

 

 その2に続く。

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この世界の片隅に 劇場アニメ絵コンテ集

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現代現象学―経験から始める哲学入門 (ワードマップ)

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現象学という思考: 〈自明なもの〉の知へ (筑摩選書)

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反哲学入門 (新潮文庫)

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科学の発見

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「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)

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映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

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