経験的事実と論理的推論から何かをやりたい人。

『万引き家族』の評判はなぜ割れたのか - パルムドール受賞からオウム死刑執行まで

 『万引き家族』という映画について、パルムドール受賞後から様々な意見が飛び交った。個人的に、2004年公開の『誰も知らない』を見てから是枝監督のファンで、タイミングを見て感想をまとめたいと思っていたのだが、既に一つの記事を書くのに十分な情報が溜まってきてしまった。そこで色々と考えた結果、とりあえずこれまでの出来事を時系列的にまとめることにした。これはまだ感想と言えるものではないけれど、差し当たり今までの流れを踏み台にして、映画含む「物事の価値」はいかにして決まるかという視点に触れていきたいと思う。

 まず、「是枝監督がカンヌ映画祭パルムドール受賞」のニュースが飛び込んできたのは、2018年5月20日のことだった。その後、先行上映は6月2日から、一般公開は6月8日からと知った。 www.oricon.co.jp

 そんな折、どういう訳かパルムドール受賞直後くらいから、「是枝監督は反日だ」「『万引き家族』は日本人を貶めている」「犯罪を正当化している」などの批判的なツイートがTwitterに溢れた。

 映画の公開前にも関わらず、こうした意見が出てきたのは、是枝映画を今まで観てきた自分としては意外だった。調べてみると、是枝監督が批判される根拠として、次のような記事が出てきた。 japanese.joins.com www.data-max.co.jp

 「血が混ざってこそ家族なのか、日本の家族は崩壊したが…」という記事では、次のようなコメントが書かれている。

「日本は経済不況で階層間の両極化が進んだ。政府は貧困層を助ける代わりに失敗者として烙印を押し、貧困を個人の責任として処理している。映画の中の家族がその代表的な例だ」

「共同体文化が崩壊して家族が崩壊している。多様性を受け入れるほど成熟しておらず、ますます地域主義に傾倒していって、残ったのは国粋主義だけだった。日本が歴史を認めない根っこがここにある。アジア近隣諸国に申し訳ない気持ちだ。日本もドイツのように謝らなければならない。だが、同じ政権がずっと執権することによって私たちは多くの希望を失っている」

 こうした内容から是枝監督は、「日本政府や安倍政権を批判している」「アジア近隣諸国に謝罪すべきと考えている」などと見られ、<反日左翼>などのレッテルを貼られ、映画そのものに対しても<反日的>という評価がされているようだった。

 一方で、森友・加計学園と結びつけた意見や、是枝監督を日本政府が祝わないのはそれこそ恥だ、というような主張も見られた。

 正直な所、自分も是枝監督の一挙手一投足を追っている訳ではないので、まあ少し左翼的な考えに染まってしまったのかな、くらいには考えていた。しかし、それで映画の評価まで決まってしまうことは、少なくとも自分の中ではない。深作欣二大島渚など、反権力的なテーマながら面白いと思える映画を撮った人も、数知れないからだ。そんなことを考えていると、Twitterで興味深い現象が起きていた。先行上映を観た人々の感想が上がり始めていたのだが、おおよそ絶賛するコメントが大勢を占めていたからだ。その中には、<反日映画>という見方を批判する人も多かった。

 6月上旬頃、Twitterで「万引き家族」と調べてみると、「観ずに批判するツイート」や「観て高評価するツイート」や「見なければ分からないだろうという旨のツイート」などがよく見られた。それを見て自分が思い出したのは、アニメ映画の『この世界の片隅に』が出た時に、「戦争映画なんて陰気くさいから見ない」「戦争を美化している」「太極旗が出るから反日的だ」といったことを観ずに主張する人達だった。まさしく自分がいま見ているのは、『万引き家族』という映画を観ずに内容を断定し、批判する主張ではないか。そんなことを思って、自分はTogetterに次のようなまとめを作った。 togetter.com

 このまとめを作ったのは6月2日のことで、まだ映画の一般公開はされていなかった。しかし、このまとめは思った以上に反響があり、7月7日現在で3万viewを越えた。また、次のようなまとめも派生的に作られ、こちらは10万viewを越えている。 togetter.com

 やがて、当の是枝監督から、次のブログ記事が書かれた。6月5日と6月7日のことだった。 www.kore-eda.com www.kore-eda.com

 この中に、是枝監督は<反日>だなどという主張への反論とも読める内容が書かれていた。要するに、記事の翻訳ミスなどを経て、言及していない語句が付け足された記事が拡散されていたようだ。少なくとも、政権批判や戦後補償の話は映画の主題ではなかったのだ。映画を実際に見た人のレビューを見ていても、そもそも政治的な話がほぼ出てこなかったので、右派左派を巡っての政治的主張の応酬は、やはり見当外れなのだろうと推測できてしまった(そもそも反日の定義って何だ、誰が決めるんだとかいう話もあるが)。

 その後、「公権力とは距離を置く」と言いつつも助成金を貰っていたことへの批判なども出てきたが、当初言われていた「是枝監督は反日だ」「『万引き家族』は日本人を貶めている」「犯罪を正当化している」のような主張を思うと、まず論点が変わっているし、随分大人しい主張になったものだなと思った。この辺までの経緯は文春の記事にもまとめられているが、個人的にはこの記事の意見に賛同する部分が多い。また、文化庁から受けた助成金2000万円は、ヒットしたら基本的に返すものらしい。 bunshun.jp togetter.com

 そうこうするうちに一般公開の日を迎え、自分は6月10日に鑑賞してきた。『誰も知らない』を彷彿とさせる要素も何か所かありながら、所々では監督得意のドキュメンタリータッチを崩し、やや劇的な編集をされたカットもあり、楽しむことができた。また、是枝監督の観察眼にも改めて驚かされた。そして、政府のせの字も無ければ、権力のけの字も出てこないことに、思わず笑ってしまった。犯罪を正当化しているなんて意見もあったが、結末もちゃんとしている。

 細かく言えば、この映画に出てくる家族そのものは、確かに現実には存在しない。けれども、一つ一つのパーツを見ていけば、元になったと考えられる事件をいくらでも挙げることができる。リアルタイムにも様々な事件が起きた。一般公開直前の6月6日には、目黒で5歳の女の子が虐待死した事件が発覚した。公開日の6月8日には、佐賀で「リアル万引き家族」なる事件も起きてしまった。

www.nikkei.com

 また、松岡茉優が働くJK見学店も、実際に存在する錦糸町の店で撮影している。

 監督のブログにあるinvisible people(見捨てられた人々)という観点で見るなら、6月9日に起きた新幹線での殺傷事件や、6月24日に起きたブロガー刺殺事件や、6月26日に起きた元自衛官による小学校銃撃事件も、映画に関連した事件として取り上げられるだろう。これらは日本で起きた現実の出来事だ。日本の良い所や魅力は自分なりに知っているつもりだが、全ての日本人が勤勉で正直で礼儀正しいかは、また別の問題である。 www.asahi.com www.itmedia.co.jp www.asahi.com

 また7月6日には、オウム事件の死刑囚7人の死刑が執行された。しかし、オウム事件の真相も、結局の所明らかになっていない部分、というか「臭いものに蓋をされた」所があるのではないだろうか。なぜなら、少なくとも事件が発覚する以前、麻原彰晃はバラエティ番組などにも出ていて、世間的には著名人的扱いも受けていたからだ。 www.buzzfeed.com

 特に、死刑執行された1人でもある中川智正は、一連の事件について率直に話す姿勢が見受けられた。彼が金正男暗殺後に書いたVXガスの論文もある。 www.wynned.com

 『万引き家族』を観た後に「オウム死刑執行」のニュースを見た時、そしてその後にオウムへの批判が改めて展開されるのを見た時、「ああオウムの人々は、世間からは理解できない<向こう側>に追いやられたのだな」と思った。オウムの後継団体である「アレフ」には、今でも毎年100人程度の人が入信し、全体の規模は1500人程度にもなるという。思うのだが、「反社会的」というレッテルを貼られた団体にわざわざ入る人は、<こちら側>の日本社会で生きて行けなくなった人々なのではないだろうか。過去に遡れば、そもそもオウムが全盛だった時期は、バブル景気からバブル崩壊への時期とも重なっている。だとしたら、オウム信者を厳しく批判しても、恐らくオウム信者は簡単に<こちら側>へは戻ってくれないだろう。物事を何かと<反日>と結び付けたり、あるいは<軍国的>だとか言って意見を押し込めるのも、却ってカルトを生み出しやすくなるのではないだろうか。  そして思うのは、この映画を観ずに批判する人達が多くいるという事実は、この映画が単なるフィクションではないことを逆説的に示しているのではないかということだ。映画における家族の内情が社会からまともに認知されないのと同様に、映画についても詳しく調べないままにレッテルを貼る人達がいることは、今そこにある事実である。個人的には、映画そのものの評価というよりも、社会に少なからず議論を起こしたという点で、今までの是枝作品にはない特異な性質を感じてもいる。

 長々と書いたが、実はこれまでのまとめは、自分が書きたいことのお膳立てだった。ここで、『万引き家族』に限らず、「物事の価値」が人によって割れる理由を考えて、この記事タイトルを回収したい。一般的に「好みの問題」というのは、人によって意見が分かれるものである。ある人が根っからのラーメン好きだったとして、日本全体でアンケートを取ったら寿司好きが一番多かったとしても、そのラーメン好きの人の好みが批判されることはないだろう。一方で、食べてもいないラーメン屋の噂を伝聞で聞いただけで、「あそこのラーメン屋は旨いんだ」と言う人がいたら、その場合は説得力に欠けることになるだろう。しかし、実際にそのラーメン屋のラーメンを食べ、改めて旨いと思った場合には伝聞が正当化され、そうでもなかった時には棄却されることになるだろう。そう考えるとまず、人々が行う価値判断は、その正当性が問題にされる場合と、問題にされない場合があるということになる。

 さて、『万引き家族』の場合、幸か不幸か一般公開の前から、様々な話題と関連づけて論じられることが多々あった。個人的に『万引き家族』は、元々は明確なメッセージを持つ映画ではないと考えているが、むしろそういう性質を持つからこそ、様々な意見と結び付けることが可能な映画だと思っている。それはすなわち、映画を観る前に持っている知識などにより、映画の評価が割れる可能性があると思っているのである。実際、比較的好意的な評価を見ても、書くことは人によって様々だ。

 恐らく一般的には、「映画の評価は映画だけを観てすべきである」という意見が多いだろう。しかし、現実には外部からの情報の影響を「受けてしまう」ことが多いと思われる。これは物事の価値を巡る問題に限らず、より根源的な経験であるはずの「知覚」についても同様のことが言える。例えば、目隠しをして触った物の名前を当てるのが難しかったり、ラベルを見ないでジュースを飲むと何味か答えづらい例などが挙げられる。結局の所、多くの人は普段から、未知の対象についての前情報を持ち、それに多少なりとも依存しなければ、いま触れているものが何かや、今飲んでいるものが何かすらもロクに分からなくなるのである。そして、映画を含む物語にしても、それに共感できるかどうかは、過去の自分の経験などに依存する部分があるはずだ。

 また、映画などの評価をする場合、特に困るのは題材が「実話」だった場合などだ。例えば、アメリ同時多発テロを題材にした映画は、映画としての出来がイマイチに感じられたとしても、実際の事件のことを思うと低評価を付けづらかったりする。逆に、何も知らずに観た映画が、後で実話が題材だと知った時、その映画を撮った意義について考え直すこともあるだろう。そして『万引き家族』を考えると、明らかに現実に起きたいくつかの事件をモチーフにしている。となれば当然、『万引き家族』への評価は、普段見ているニュースなどの知識にも依存することになるだろう。

 そう考えると、例えば『万引き家族』を反日的だと批判する人は、是枝監督の<反日的>発言などの影響を受けていると推測できる。映画が犯罪を正当化していると言う人は、過去に同様の言説を見聞きしたことがあったのかもしれない。逆に共感を覚えた人は、自分の過去の経験や伝聞などに思い当たる節があったのだろう。また、特に何も感じなかったのなら、映画中の人物と同様の感覚を味わったことがなかったのではないだろうか。もちろん、事前の知識に評価がある程度左右されるとはいえ、最終的には実際に「観る」ことが重要になる。物事の価値の正当性を高めるには、その物事の「見知り」が重要と思われるのだ。ラーメンの知識はやたら豊富なのに、ラーメンを食べたことがない人がいたら、その人の意見が無視されるであろうことと基本的に同じことだ。そしてそうした構造は、日常の中にも潜んでいるだろうし、観客自身もバイアスの中にいることを気付かされるのである。その意味では、日本での興行が比較的好調で、映画のレビューも絶えず増えるのは良いことだと思う。公開前の時点であれだけ様々な意見が飛び交っていた一方で、やがて鑑賞した人々によって広がった評価を見て、ひょっとしてこれは世の中を変える映画なのかもしれないと思った。

<参考>

万引き家族【映画小説化作品】

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誰も知らない [Blu-ray]

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現代現象学―経験から始める哲学入門 (ワードマップ)

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オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義

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『ズートピア』から考える民主主義のジレンマ(2)

 その1からの続き。

irigata.hatenablog.com

 

 

 ここまでに、自然状態は理想的な環境ではないが、かと言って寡頭政では人々の意思を汲み取れないし、全会一致は実現する望みが薄く、多数決も正しい結論を得られるとは限らないことなどを見てきた。しかし、残されている問題はそれだけではない。


 ズートピアに話を戻すと、あの映画で分かりやすく描かれている問題の一つに、雇用機会の格差問題がある。形式的には肉食獣と草食獣との間に差別はないが、実際には力の強い肉食獣に有利な仕事が多いようである。ウサギで女の子のジュディはそうした状況に戦いを挑み、キツネのニックもやがては自分への偏見に向き合うようになる。もちろん、弱者が強者と同等の能力を手に入れるには、それ相応の努力が必要になるのだが。

 女性の雇用機会などを是正するための政策として、アファーマティブアクションと呼ばれるものがある。例えば、同じ成績の男女がいた場合、女性を優先的に昇進させる制度などが挙げられる。しかし、これは逆差別ではないかという反論もある。実際の所、同じ成績でも女性の方が優遇されるというのは公平ではない。けれども、この場合のアファーマティブアクションとは、女性の方が昇進の面で不利ということを前提にした制度であることに注意が必要だろう。

 

 ズートピアの場合でも、ウサギ初の警察官になったジュディは、ライオンハート市長から直々に、市中心部への配属を告げられる。これは草食獣のウサギに対するアファーマティブアクションと思われるが、逆差別とも取れるこうした措置は、ウサギへの処遇が改善されるまでの特別措置と捉えるべきだろう。アファーマティブアクションが施行されている状態は、ウサギにとっても好ましい状態ではないのである。

 しかし女性の昇進の場合には、より複雑な問題がある。というのも、子供を産めるのは女性だけなので、女性が出産の度に仕事から離れることについて、根本的に解決することは不可能と思われるからだ。誰でも何にでもなれるはずのズートピアでも、ウサギはウサギ以外にはなれず、キツネもやっぱりキツネでしかない。格差をどこまで是正すべきかという問題も、簡単に答えが出る訳ではない。

 

 

 政治参加とは結局のところ、かなり手間がかかるものだと言えると思う。ある程度の教育を受けた国民が、普段の生活から少しの時間を割いて、政治の状況をチェックしたりするのはコストがかかる。しかし、自分の権利が侵されないためには、権利を行使し続ける必要もある。権利を持っていることに胡坐をかいていれば、実質的に大きな不利益を被ることがあるのだ。例えば、若者の選挙の投票率が低ければ、政治家が若者向けの政策を重視しなくなる、というように。

 政治学者の丸山眞男は、民主主義とは「永久革命」であると言った。この世に民主主義が達成された国はないし、今後も永遠にない。民主化し続けることによって、民主主義はかろうじて民主主義でありえる。そして何より、民主主義とはプロセス重視、議論を重視する仕組みだと言うのである。

 丸山は福沢諭吉の研究をしばしば行っているが、福沢の言葉に「一身独立して一国独立す」という文章がある。これが特に戦後社会において、各個人が独立した主体性を持つべきだという主張に使われることがあったようだ。安保闘争や住民の反対運動は、そうした主体性を重視する思想があってこそ行動に移せるということである。しかし、アイデンティティの確立には「他者の鏡」が必要だとも言われる。実際、誰からの影響も受けずに主体性を確立できるとは考えづらい。主体的な個人というのは、小さい頃の経験や環境にかなり左右される部分があるのではないだろうか。

 時代が進んで学生運動が盛んな時代になると、感情的で過激な活動も多くなり、丸山すらも旧体制的だとして、厳しい批判を受けるようになる。そしてついには丸山は、大学をも追われてしまうのである。個人的にそのエピソードは、ズートピアにおいて社会を良くしようと警察官になったジュディが、社会の混乱を収められずに辞職するシーンを思い出してしまう。

 

  ここで再び、偏見を無くしたり多様性を尊重するために、他者と相互理解することは可能かという問いに戻ってみる。例えば結婚について考えると、始めから互いに権利を主張しあっているような関係では、とても上手くいっている夫婦とは言えないだろう。しかし実際、価値観の違いなどから離婚に至る夫婦は珍しくない。人間が相互にコミュニケーションを取り、互いに理解しあう社会を想像することは無意味なのだろうか。

 だが、人間は基本的に社会的な存在であり、他者と関わることを望むものである。もし意思疎通を図ることが完全に不可能だとしたら、そもそも他者と会話をしようとも思わないはずだが、実際にそうなることは少ない。丸山眞男は政治のコミュニケーションについて、「他者感覚」を持つことが重要だと言った。自分に反対する意見に耳を傾け、その意味を理解することが大事だと言うのである。これは言わば、権利を主張することは最後の砦であり、良心や愛情のようなものをまず大切にしようという意味にも聞こえるが、考え方として馬鹿にはできないとも思う。これも、ズートピアのラストにおける、ジュディのスピーチの内容を思い起こさせる。

 

 

 最近では、日本に住む在留外国人の数も増えてきた。高齢化が進んだ団地などに、子育て世代の外国人が移り住み、交流が無いままにトラブルが起きるという話も聞く。よくあるのはごみの捨て方のトラブルで、不燃ごみの日に粗大ごみを出すといった行為に悩まされるパターンなどがある。そもそも不用意に外国人を受け入れるべきでないという主張もあると思うが、逆に日本人がビジネスなどで出国することも当たり前になっている。年単位で海外へ行くことも珍しくなく、ある意味でお互い様の部分があるだろう。

  そうは言っても、これを書いている自分に誰かへの偏見が全く無いかと言えば嘘になる。例えば以前、友人が「ねじとかって今は中国で作るのだろうか」と言ったのに対して、自分は「まあねじくらい作れるだろ」と言ってしまい、「いくら何でも中国を馬鹿にしすぎだ」と諭されたことがある。また別の例もある。以前、聴覚に障害のある人とボーリングをしたことがあるのだが、何となくスポーツが苦手なのではと思っていたら、案外いい点を取っていて驚いたことがある。よく考えれば、ボーリングは個人戦だし、音に関係するスポーツではないのだが、自分の中で偏見があったことに恥ずかしくなってしまった。

 ズートピアを振り返ると、ニックを前にしてキツネ除けに手をかけようとしたジュディを思い出す。ジュディは差別を許さない性格のはずだが、無意識のうちにキツネへの恐怖心は持っていたのだ。しかし、残酷な話ではあるのだが、ステレオタイプや第一印象というのは役に立つこともある。例えば、髪を染めてピアスをしている若者と、教会にいる修道女では、パンク音楽が好きそうなのはどちらだろうか? あるいは、讃美歌が好きそうなのはどちらだろうか? こうしたイメージは偏見ではあるのだが、当たっていることも珍しくない。何より、そうしたステレオタイプを全く持たなければ、普段の生活にも支障を来すだろう。生物学的な違いを越えること、あるいは本能的に抱く感情を捨てることには、そうした難しさがある。

 

 

 また、民主主義を採用する共同体においても、共同体の外にいる人々をどう扱うかという問いは難問かもしれない。リンカーンの言葉を援用するなら、日本という国は「日本人の、日本人による、日本人のための」国家である。そこには外国人は考慮されていない。民主的なプロセスを経て日本の利益になると判断されれば、外国人にいくら迷惑が掛かろうと、それは議論の外である。メロス包囲戦の例で言えば、メロス人を迫害することが「アテナイ人にとって」利益になると民主的に判断されれば、それを民主的な理由で批判することは難しいかもしれない。トロッコ問題で言えば、例えば1人の日本人と5人の韓国人のどちらを救うか日本人が決定する場合、日本人ならば躊躇なく5人の韓国人を殺すべきことになろう。逆に、1人の韓国人と5人の日本人のどちらを救うか韓国人が判断する場合、韓国人が5人の日本人を殺す判断をしても、日本人はその行為を批判できなくなるかもしれない。

 現実には、外国人もある程度は保護される。これは国際法の観点から説明できるだろう。日本という国は「日本人の、日本人による、日本人のための」国家であり、韓国という国は「韓国人の、韓国人による、韓国人のための」国家である。しかし、だからと言って日本人が、韓国でまともに人権を与えられないようでは困る。結局のところ、「人道的な」理由によって外国人も保護するのが理にかなっているはずである。しかし、日本人であれば日本人をひいきするのは珍しいことではない。日本人と外国人を平等に扱うのは、心理的には難しいことかもしれない。

 

 ズートピアでは、最後に「Try Everything」という曲が流れる。失敗することはよくあるが、諦めずに何度でも挑戦しよう、といった内容の曲だ。これもまさしく、ジレンマを抱えつつもやるしかないという、民主主義をよく表した曲に思えてならない。 ひとまずは、物事の良し悪しを決めるのに多くの判断材料があることや、具体的にどういう問題があるかを自覚するしかないのだろう。

 

 


<参考>
B. Howard, R. Moore, 『ズートピア』, Walt Disney Animation Studios (2016)
J. Julius, 『ジ・アート・オブ ズートピア』, 徳間書店 (2016)
J. Wolff, 『政治哲学入門』, 坂本知宏訳, 晃洋書房 (2000)
T. Cathcart, 『「正義」は決められるのか?』, 小川仁志, 高橋璃子訳, かんき出版 (2015)
木田元, 『反哲学入門』, 新潮社 (2010)
R. Collins, 『脱常識の社会学 第二版』, 井上俊, 磯部卓三訳, 岩波書店 (2013)
坂井豊貴, 『多数決を疑う 社会的選択理論とは何か』, 岩波書店 (2015)
齊藤勇, 『イラストレート人間関係の心理学 第2版』, 誠信書房 (2015)
NHK, 『日本人は何をめざしてきたのか 第3回 丸山眞男政治学者たち』 (2014)
M. L. Patterson, 『ことばにできない想いを伝える』, 大坊郁夫訳, 誠信書房 (2013)

 

 

 

ジ・アート・オブ ズートピア: THE ART OF ZOOTOPIA (CHRONICLE BOOKS)

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政治哲学入門

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「正義」は決められるのか?

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反哲学入門 (新潮文庫)

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脱常識の社会学 第二版――社会の読み方入門 (岩波現代文庫)

脱常識の社会学 第二版――社会の読み方入門 (岩波現代文庫)

 

 

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

 

 

イラストレート人間関係の心理学[第2版]

イラストレート人間関係の心理学[第2版]

 

 

丸山眞男―リベラリストの肖像 (岩波新書)

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ことばにできない想いを伝える: 非言語コミュニケーションの心理学

ことばにできない想いを伝える: 非言語コミュニケーションの心理学

 

 

テキストブック 法と国際社会〔第2版〕

テキストブック 法と国際社会〔第2版〕

 

 

『ズートピア』から考える民主主義のジレンマ(1)

togetter.com

 

 ズートピアの感想を探していると、あれは「偏見」や「多様性」について描いた映画だ、といった内容をよく見かけた。確かにそうした要素があることは間違いないと思う。しかし、単に「一人一人の個性を認めよう」という内容なら、他にも例を沢山挙げられそうだ。けれども今回、自分がわざわざズートピアを取り上げるのは、「多様性を尊重するプロセス」にも突っ込んでいる点が、他の文芸作品と比べても特異に思えたからだ。実際の社会でそれをどう実現するのかという問いが、子供向けと思われるディズニー映画で描かれていたのは、自分にとって新鮮な驚きだった。

 ただ、あの映画の展開について冷静に考えると、純粋にハッピーエンドとは言い切れない所があるのではと思う。というのも、明確な「敵」が設定されており、多様性の尊重を謳うような映画において、排他主義的な信条を持った「敵」の扱いが少し残念に感じたからだ。当然かもしれないが、多様性を尊重するのであれば、排他主義的な考えは排除されることになる。しかし、ただ一方的に排他主義者を排除するズートピアの社会は、多様性が尊重されていると言えるのだろうか。

 

 現実の社会に目を移すと、こうした問題はますます浮き彫りになってくる。ズートピアが公開されたのは2016年春のことだが、その直前の2015年11月13日にはフランスで同時多発テロがあり、2016年6月23日にはイギリスで国民投票によるEU離脱が決定され、2016年11月8日にはアメリカで自国第一主義を掲げるトランプ大統領が当選するなどした。ひとまず、単に排他主義を敵視するだけでは、多様性が尊重される世界になることは無さそうだ。

 偏見を無くしたり多様性を尊重するためには、他者との相互理解が必要不可欠だろう。しかし現実を見ると、そんなことはとても無理なようにも見える。日本でしばしば熱くなる中国韓国との問題を挙げてもいい。日本と中国韓国との経済的な結びつきはかなり強いが、その一方で政治的に裏切られる可能性はいつでも否定はできず、それでこそ相手を疑うことにも意味があるのだろう。他者(他国)を全く疑わずに関係を築くことを期待するのは、恐らく現実的ではない。

 

 

 ここで一つの極論として、「そもそも他者と無理に関わる必要はない」という考え方をすることができるだろう。社会を作る必然性はないし、一人で生きていくことも不可能ではないはずだ。自然界では単独行動する生物も珍しくない。社会は個人に様々な利益を与える一方、多くの制限も課すし、守らなければ制裁も加える。多くの人は生まれた時から何らかの共同体に属しているが、特に選択の自由があった訳ではない。では、他者と何らかの関係を作ることは、本当に利益になるのだろうか。

 

 そこで考えたいのが、「自然状態」という概念だ。自然状態の定義については多くの考え方があるが、今回は囚人のジレンマゲームを話に使いたいので、自然状態を「ゲーム的状況」と置き換えて考えよう。人間の利他性を無視するつもりはないが、仮に人間を「自分の利益のみを重視する利己的な存在」と考えた場合、待っているのは闘争である。その場合、他者と約束をまともに結ぶ意味はなく、常に相手に裏切られることを想定し、時には自衛のために他者を攻撃する必要もあるだろう。いわゆる、「万人の万人に対する闘争」の状態だ。ズートピアの冒頭でも、元々は肉食動物と草食動物が絶えず争い合っていたことが説明されるが、各人の行動があまりにも制限されていない世界では、安心して生活することは難しそうだ。一旦は人間の社交性を考慮して、集団の方がより良い利益が得られることは認めたとしよう。しかし、約束を結んで意味があるのは周囲が協力的な場合に限られる。誰も約束を守らないなら、自分も守る意味はない。そこで、対策案として考えられるのが、何らかの共同体と構成員を決め、集団の統率を取るやり方である。

 共同体を作ったとしよう。次に考えるべきは、誰が統治すべきかという問題だ。差し当たり、これは共同体を作った構成員全員が参加して、共同で統治することが思いつく。しかし、これに対する反論がある。例えば哲学者のプラトンは、民主主義を批判したことで有名である。と言うのも、直接民主制を採用していた当時のアテナイでは、酷い衆愚政治がまかり通っていたのだ。メロス包囲戦という戦いではメロス人を降伏させた後、男は全員死刑、女子供は全員奴隷にするという提案を可決したりしていたのである。プラトンはこれに対して、政治の特別な訓練を受けた「哲人王」に政治を行わせることを提案している。自然状態をゲーム的状況と仮定した場合には、この考え方も説得力を持つだろう。構成員が自分の利益を優先しているような共同体では、意見がまとまらなかったり、感情論で物事を決めてしまうことも多くなると思われるからだ。特別に訓練された専門家に問題を委ねるよりも、一般大衆による政治が上手くいくと考える理由はあるのだろうか。

 人間の歴史上、確かに寡頭制は何度か採用された。中世の封建制などがそうだし、共産主義もそういう面がある。しかし、現代ではもはや寡頭政が採用されにくくなっている。というのも、結局は寡頭政で問題を起こさないことは難しく、しばしば失敗してきたからである。自然状態は行為の制限が無さすぎるがゆえに闘争を生んだが、制限が強すぎる独裁制ももう一方の極にある不幸な状態だ。個人の「自由」をどこまで制限すべきかという問題はここでは保留するが、とにかくも政治の対象は構成員全体である。一人一人が何を望んでいるか、一番よく分かっているのは本人のはずであり、万人の希望を哲人王がいちいち把握するのも不可能だろう。そうなると、構成員も政治参加すべきという考え方が説得力を持ってくる。

 

 

 さて、民主主義の定義については後回しにしてしまったが、今は素朴に「意思決定などは共同体の構成員全員で行うべきだ」という思想だと考えておこう。しかしこれは、単に構成員の意見を集約すれば済む話ではない。それについて考えるために、再び囚人のジレンマゲームを例に出してみよう。

 10人に対して10万円の賃金が用意されている時、構成員が自分の利益のみを優先して良いのなら、10人全員が自分だけ10万円を貰えるよう要求することになる。しかし、これを採用することは不可能であり、普通は「平等」に1万円ずつ配ることになるだろう。この場合、一人一人の「10万円ほしい」という要求は「特殊意思」と言い、それを単純に足し合わせた「10万円×10ほしい」という要求は「全体意志」と言う。そして、現実的に全員の要求を汲んだ「1人につき1万円ほしい」という要求は「一般意志」と呼ばれる。哲学者のルソーは、特殊意思を単純に足し合わせても一般意志にはならないと言ったそうだが、自分はそれを今書いたような例によって理解している。

 さて、上では単純な資源の配分問題を考えたのだが、現実にはもう少し複雑な問題を孕んでいる。例えば、10人が平等に仕事をしたのではなく、誰か一人に大きな責任がかかっていた場合、10万円を平等に分けることは「公平」ではないかもしれない。全員が納得できる一般意志なるものが常に存在すればいいのだが、そうでなければ全会一致の結論を出すことは難しいだろう。一般意志は実際には、誰かに代弁されてしまうものでもある。そうなると、本当に存在するか分からない一般意志を構成員に強制した場合には、民主主義はすぐさま全体主義へと変化してしまうかもしれない。例えば、共同体全体の利益のためには、時として進んで犠牲も払うべきだ、という風に。これは愛国主義的な考えと相性がいいだろう。

 

 また、意見を集約するための方法に多数決があるが、これにもいくつかの大きなジレンマがある。多数決の根本にあるのは、なるべく多くの人が幸福になるべきだという「最大多数の最大幸福」の考え方だろう。これは功利主義とも言われる。まず始めに、有名なトロッコ問題について考えてみよう。

 暴走する列車の先に5人の作業員がいる。このままだと、電車は5人全員をひき殺してしまう。一方、電車の進行方向を変えて待避線に進めば、そこにいる1人の作業員をひき殺すだけで済む。この時、路面電車の運転手はそのまま5人を死なせるべきか、それとも向きを変えて1人を死なせるべきか、という問題である。

 この問いについて一般的には、向きを変えて1人を死なせる方がまし、と考える人が多いようである。しかし、人によっては5人を犠牲にすると言う人もいる。理由は例えば、方向を変えると意図的にその1人を殺すことになるが、何もしなければ事故になる、というものがある。それに関連した問いとして、5人の作業員を救うために、陸橋に立っている1人を突き落として電車を止めることは許されるか、という問題もある。こうなると、わざわざ人間を突き落としてまで電車を止める行為には賛同しない人が多いだろう。要するに、人間の正義の基準としては、幸福になる「人数」だけでなく、幸福のための「手段」も重視することがよくあるのである。また、1人の方にいるのが自分の子供だったら、1人の方にハンドルを切ることは難しいかもしれない。そうなると、具体的にどんな人を犠牲にするかという「対象」についても、大きな判断材料になってくる。

 

 また、第1候補に1票だけを投じる単純多数決は、死票や票割れを生みやすいという問題もある。投票制度について研究する学問に社会的選択理論というのがあるが、例えばボルダルールという投票ルールを使うと、死票や票割れの問題を軽減することができる。また、ボルダルールやドント方式などで票を集計すると、投票ルールによってしばしば結果が変わることが知られている。そうなると、投票結果がそのまま民意を表しているとは言いがたいことになるだろう。

 また、何に対して投票するかも重要である。直接民主制の場合、人々は政策への是非を直接示すことができる。しかし、共同体の構成員全員が、全ての政策をいちいちチェックして、毎回全員で採決を取るのは現実的ではない。結局、一般的に採用されているのは代議制(間接)民主制が多いのだが、この場合には政策ではなく人間に対して投票を行うことになる。そうなると、何の政策を支持するかだけでなく、誰を信用するかということに大きな注意を払う必要が出てくる。

代議制民主制に関連して言えば、官僚機構の弊害に触れておくのも不自然ではないだろう。合理的に手続きを進めるために作られたはずの官僚制は、しばしば非合理的なことで悪名高いのである。

 

 加えて、先にアテナイ衆愚政治の例を出したように、安易な多数決による意思決定は暴走しやすい。ズートピアでも、恐怖の力を利用して、多数決で物事を決めようとするシーンがあった。また、集団で何かを行う時には、自分たちは正しいという感覚を抱きやすくなる。一度集団が暴走してしまうと、自浄作用も働きにくい。かつての大日本帝国の場合、陸軍・海軍・外務省で対外政策がバラバラだったり、決断を欠いた政治が戦況を複雑化させたりしていたが、その状況でも戦争を拡大することに賛成する国民は多かったそうだ。そして、その状況が変わるには300万人の死者を出し、敗戦するまで待たなければならなかった。

 

 

 その2に続く。

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