経験的事実と論理的推論から何かをやりたい人。

『ズートピア』から考える民主主義のジレンマ(2)

 その1からの続き。

irigata.hatenablog.com

 

 

 ここまでに、自然状態は理想的な環境ではないが、かと言って寡頭政では人々の意思を汲み取れないし、全会一致は実現する望みが薄く、多数決も正しい結論を得られるとは限らないことなどを見てきた。しかし、残されている問題はそれだけではない。


 ズートピアに話を戻すと、あの映画で分かりやすく描かれている問題の一つに、雇用機会の格差問題がある。形式的には肉食獣と草食獣との間に差別はないが、実際には力の強い肉食獣に有利な仕事が多いようである。ウサギで女の子のジュディはそうした状況に戦いを挑み、キツネのニックもやがては自分への偏見に向き合うようになる。もちろん、弱者が強者と同等の能力を手に入れるには、それ相応の努力が必要になるのだが。

 女性の雇用機会などを是正するための政策として、アファーマティブアクションと呼ばれるものがある。例えば、同じ成績の男女がいた場合、女性を優先的に昇進させる制度などが挙げられる。しかし、これは逆差別ではないかという反論もある。実際の所、同じ成績でも女性の方が優遇されるというのは公平ではない。けれども、この場合のアファーマティブアクションとは、女性の方が昇進の面で不利ということを前提にした制度であることに注意が必要だろう。

 

 ズートピアの場合でも、ウサギ初の警察官になったジュディは、ライオンハート市長から直々に、市中心部への配属を告げられる。これは草食獣のウサギに対するアファーマティブアクションと思われるが、逆差別とも取れるこうした措置は、ウサギへの処遇が改善されるまでの特別措置と捉えるべきだろう。アファーマティブアクションが施行されている状態は、ウサギにとっても好ましい状態ではないのである。

 しかし女性の昇進の場合には、より複雑な問題がある。というのも、子供を産めるのは女性だけなので、女性が出産の度に仕事から離れることについて、根本的に解決することは不可能と思われるからだ。誰でも何にでもなれるはずのズートピアでも、ウサギはウサギ以外にはなれず、キツネもやっぱりキツネでしかない。格差をどこまで是正すべきかという問題も、簡単に答えが出る訳ではない。

 

 

 政治参加とは結局のところ、かなり手間がかかるものだと言えると思う。ある程度の教育を受けた国民が、普段の生活から少しの時間を割いて、政治の状況をチェックしたりするのはコストがかかる。しかし、自分の権利が侵されないためには、権利を行使し続ける必要もある。権利を持っていることに胡坐をかいていれば、実質的に大きな不利益を被ることがあるのだ。例えば、若者の選挙の投票率が低ければ、政治家が若者向けの政策を重視しなくなる、というように。

 政治学者の丸山眞男は、民主主義とは「永久革命」であると言った。この世に民主主義が達成された国はないし、今後も永遠にない。民主化し続けることによって、民主主義はかろうじて民主主義でありえる。そして何より、民主主義とはプロセス重視、議論を重視する仕組みだと言うのである。

 丸山は福沢諭吉の研究をしばしば行っているが、福沢の言葉に「一身独立して一国独立す」という文章がある。これが特に戦後社会において、各個人が独立した主体性を持つべきだという主張に使われることがあったようだ。安保闘争や住民の反対運動は、そうした主体性を重視する思想があってこそ行動に移せるということである。しかし、アイデンティティの確立には「他者の鏡」が必要だとも言われる。実際、誰からの影響も受けずに主体性を確立できるとは考えづらい。主体的な個人というのは、小さい頃の経験や環境にかなり左右される部分があるのではないだろうか。

 時代が進んで学生運動が盛んな時代になると、感情的で過激な活動も多くなり、丸山すらも旧体制的だとして、厳しい批判を受けるようになる。そしてついには丸山は、大学をも追われてしまうのである。個人的にそのエピソードは、ズートピアにおいて社会を良くしようと警察官になったジュディが、社会の混乱を収められずに辞職するシーンを思い出してしまう。

 

  ここで再び、偏見を無くしたり多様性を尊重するために、他者と相互理解することは可能かという問いに戻ってみる。例えば結婚について考えると、始めから互いに権利を主張しあっているような関係では、とても上手くいっている夫婦とは言えないだろう。しかし実際、価値観の違いなどから離婚に至る夫婦は珍しくない。人間が相互にコミュニケーションを取り、互いに理解しあう社会を想像することは無意味なのだろうか。

 だが、人間は基本的に社会的な存在であり、他者と関わることを望むものである。もし意思疎通を図ることが完全に不可能だとしたら、そもそも他者と会話をしようとも思わないはずだが、実際にそうなることは少ない。丸山眞男は政治のコミュニケーションについて、「他者感覚」を持つことが重要だと言った。自分に反対する意見に耳を傾け、その意味を理解することが大事だと言うのである。これは言わば、権利を主張することは最後の砦であり、良心や愛情のようなものをまず大切にしようという意味にも聞こえるが、考え方として馬鹿にはできないとも思う。これも、ズートピアのラストにおける、ジュディのスピーチの内容を思い起こさせる。

 

 

 最近では、日本に住む在留外国人の数も増えてきた。高齢化が進んだ団地などに、子育て世代の外国人が移り住み、交流が無いままにトラブルが起きるという話も聞く。よくあるのはごみの捨て方のトラブルで、不燃ごみの日に粗大ごみを出すといった行為に悩まされるパターンなどがある。そもそも不用意に外国人を受け入れるべきでないという主張もあると思うが、逆に日本人がビジネスなどで出国することも当たり前になっている。年単位で海外へ行くことも珍しくなく、ある意味でお互い様の部分があるだろう。

  そうは言っても、これを書いている自分に誰かへの偏見が全く無いかと言えば嘘になる。例えば以前、友人が「ねじとかって今は中国で作るのだろうか」と言ったのに対して、自分は「まあねじくらい作れるだろ」と言ってしまい、「いくら何でも中国を馬鹿にしすぎだ」と諭されたことがある。また別の例もある。以前、聴覚に障害のある人とボーリングをしたことがあるのだが、何となくスポーツが苦手なのではと思っていたら、案外いい点を取っていて驚いたことがある。よく考えれば、ボーリングは個人戦だし、音に関係するスポーツではないのだが、自分の中で偏見があったことに恥ずかしくなってしまった。

 ズートピアを振り返ると、ニックを前にしてキツネ除けに手をかけようとしたジュディを思い出す。ジュディは差別を許さない性格のはずだが、無意識のうちにキツネへの恐怖心は持っていたのだ。しかし、残酷な話ではあるのだが、ステレオタイプや第一印象というのは役に立つこともある。例えば、髪を染めてピアスをしている若者と、教会にいる修道女では、パンク音楽が好きそうなのはどちらだろうか? あるいは、讃美歌が好きそうなのはどちらだろうか? こうしたイメージは偏見ではあるのだが、当たっていることも珍しくない。何より、そうしたステレオタイプを全く持たなければ、普段の生活にも支障を来すだろう。生物学的な違いを越えること、あるいは本能的に抱く感情を捨てることには、そうした難しさがある。

 

 

 また、民主主義を採用する共同体においても、共同体の外にいる人々をどう扱うかという問いは難問かもしれない。リンカーンの言葉を援用するなら、日本という国は「日本人の、日本人による、日本人のための」国家である。そこには外国人は考慮されていない。民主的なプロセスを経て日本の利益になると判断されれば、外国人にいくら迷惑が掛かろうと、それは議論の外である。メロス包囲戦の例で言えば、メロス人を迫害することが「アテナイ人にとって」利益になると民主的に判断されれば、それを民主的な理由で批判することは難しいかもしれない。トロッコ問題で言えば、例えば1人の日本人と5人の韓国人のどちらを救うか日本人が決定する場合、日本人ならば躊躇なく5人の韓国人を殺すべきことになろう。逆に、1人の韓国人と5人の日本人のどちらを救うか韓国人が判断する場合、韓国人が5人の日本人を殺す判断をしても、日本人はその行為を批判できなくなるかもしれない。

 現実には、外国人もある程度は保護される。これは国際法の観点から説明できるだろう。日本という国は「日本人の、日本人による、日本人のための」国家であり、韓国という国は「韓国人の、韓国人による、韓国人のための」国家である。しかし、だからと言って日本人が、韓国でまともに人権を与えられないようでは困る。結局のところ、「人道的な」理由によって外国人も保護するのが理にかなっているはずである。しかし、日本人であれば日本人をひいきするのは珍しいことではない。日本人と外国人を平等に扱うのは、心理的には難しいことかもしれない。

 

 ズートピアでは、最後に「Try Everything」という曲が流れる。失敗することはよくあるが、諦めずに何度でも挑戦しよう、といった内容の曲だ。これもまさしく、ジレンマを抱えつつもやるしかないという、民主主義をよく表した曲に思えてならない。 ひとまずは、物事の良し悪しを決めるのに多くの判断材料があることや、具体的にどういう問題があるかを自覚するしかないのだろう。

 

 


<参考>
B. Howard, R. Moore, 『ズートピア』, Walt Disney Animation Studios (2016)
J. Julius, 『ジ・アート・オブ ズートピア』, 徳間書店 (2016)
J. Wolff, 『政治哲学入門』, 坂本知宏訳, 晃洋書房 (2000)
T. Cathcart, 『「正義」は決められるのか?』, 小川仁志, 高橋璃子訳, かんき出版 (2015)
木田元, 『反哲学入門』, 新潮社 (2010)
R. Collins, 『脱常識の社会学 第二版』, 井上俊, 磯部卓三訳, 岩波書店 (2013)
坂井豊貴, 『多数決を疑う 社会的選択理論とは何か』, 岩波書店 (2015)
齊藤勇, 『イラストレート人間関係の心理学 第2版』, 誠信書房 (2015)
NHK, 『日本人は何をめざしてきたのか 第3回 丸山眞男政治学者たち』 (2014)
M. L. Patterson, 『ことばにできない想いを伝える』, 大坊郁夫訳, 誠信書房 (2013)

 

 

 

ジ・アート・オブ ズートピア: THE ART OF ZOOTOPIA (CHRONICLE BOOKS)

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政治哲学入門

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「正義」は決められるのか?

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反哲学入門 (新潮文庫)

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脱常識の社会学 第二版――社会の読み方入門 (岩波現代文庫)

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多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

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イラストレート人間関係の心理学[第2版]

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丸山眞男―リベラリストの肖像 (岩波新書)

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ことばにできない想いを伝える: 非言語コミュニケーションの心理学

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テキストブック 法と国際社会〔第2版〕

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『ズートピア』から考える民主主義のジレンマ(1)

togetter.com

 

 ズートピアの感想を探していると、あれは「偏見」や「多様性」について描いた映画だ、といった内容をよく見かけた。確かにそうした要素があることは間違いないと思う。しかし、単に「一人一人の個性を認めよう」という内容なら、他にも例を沢山挙げられそうだ。けれども今回、自分がわざわざズートピアを取り上げるのは、「多様性を尊重するプロセス」にも突っ込んでいる点が、他の文芸作品と比べても特異に思えたからだ。実際の社会でそれをどう実現するのかという問いが、子供向けと思われるディズニー映画で描かれていたのは、自分にとって新鮮な驚きだった。

 ただ、あの映画の展開について冷静に考えると、純粋にハッピーエンドとは言い切れない所があるのではと思う。というのも、明確な「敵」が設定されており、多様性の尊重を謳うような映画において、排他主義的な信条を持った「敵」の扱いが少し残念に感じたからだ。当然かもしれないが、多様性を尊重するのであれば、排他主義的な考えは排除されることになる。しかし、ただ一方的に排他主義者を排除するズートピアの社会は、多様性が尊重されていると言えるのだろうか。

 

 現実の社会に目を移すと、こうした問題はますます浮き彫りになってくる。ズートピアが公開されたのは2016年春のことだが、その直前の2015年11月13日にはフランスで同時多発テロがあり、2016年6月23日にはイギリスで国民投票によるEU離脱が決定され、2016年11月8日にはアメリカで自国第一主義を掲げるトランプ大統領が当選するなどした。ひとまず、単に排他主義を敵視するだけでは、多様性が尊重される世界になることは無さそうだ。

 偏見を無くしたり多様性を尊重するためには、他者との相互理解が必要不可欠だろう。しかし現実を見ると、そんなことはとても無理なようにも見える。日本でしばしば熱くなる中国韓国との問題を挙げてもいい。日本と中国韓国との経済的な結びつきはかなり強いが、その一方で政治的に裏切られる可能性はいつでも否定はできず、それでこそ相手を疑うことにも意味があるのだろう。他者(他国)を全く疑わずに関係を築くことを期待するのは、恐らく現実的ではない。

 

 

 ここで一つの極論として、「そもそも他者と無理に関わる必要はない」という考え方をすることができるだろう。社会を作る必然性はないし、一人で生きていくことも不可能ではないはずだ。自然界では単独行動する生物も珍しくない。社会は個人に様々な利益を与える一方、多くの制限も課すし、守らなければ制裁も加える。多くの人は生まれた時から何らかの共同体に属しているが、特に選択の自由があった訳ではない。では、他者と何らかの関係を作ることは、本当に利益になるのだろうか。

 

 そこで考えたいのが、「自然状態」という概念だ。自然状態の定義については多くの考え方があるが、今回は囚人のジレンマゲームを話に使いたいので、自然状態を「ゲーム的状況」と置き換えて考えよう。人間の利他性を無視するつもりはないが、仮に人間を「自分の利益のみを重視する利己的な存在」と考えた場合、待っているのは闘争である。その場合、他者と約束をまともに結ぶ意味はなく、常に相手に裏切られることを想定し、時には自衛のために他者を攻撃する必要もあるだろう。いわゆる、「万人の万人に対する闘争」の状態だ。ズートピアの冒頭でも、元々は肉食動物と草食動物が絶えず争い合っていたことが説明されるが、各人の行動があまりにも制限されていない世界では、安心して生活することは難しそうだ。一旦は人間の社交性を考慮して、集団の方がより良い利益が得られることは認めたとしよう。しかし、約束を結んで意味があるのは周囲が協力的な場合に限られる。誰も約束を守らないなら、自分も守る意味はない。そこで、対策案として考えられるのが、何らかの共同体と構成員を決め、集団の統率を取るやり方である。

 共同体を作ったとしよう。次に考えるべきは、誰が統治すべきかという問題だ。差し当たり、これは共同体を作った構成員全員が参加して、共同で統治することが思いつく。しかし、これに対する反論がある。例えば哲学者のプラトンは、民主主義を批判したことで有名である。と言うのも、直接民主制を採用していた当時のアテナイでは、酷い衆愚政治がまかり通っていたのだ。メロス包囲戦という戦いではメロス人を降伏させた後、男は全員死刑、女子供は全員奴隷にするという提案を可決したりしていたのである。プラトンはこれに対して、政治の特別な訓練を受けた「哲人王」に政治を行わせることを提案している。自然状態をゲーム的状況と仮定した場合には、この考え方も説得力を持つだろう。構成員が自分の利益を優先しているような共同体では、意見がまとまらなかったり、感情論で物事を決めてしまうことも多くなると思われるからだ。特別に訓練された専門家に問題を委ねるよりも、一般大衆による政治が上手くいくと考える理由はあるのだろうか。

 人間の歴史上、確かに寡頭制は何度か採用された。中世の封建制などがそうだし、共産主義もそういう面がある。しかし、現代ではもはや寡頭政が採用されにくくなっている。というのも、結局は寡頭政で問題を起こさないことは難しく、しばしば失敗してきたからである。自然状態は行為の制限が無さすぎるがゆえに闘争を生んだが、制限が強すぎる独裁制ももう一方の極にある不幸な状態だ。個人の「自由」をどこまで制限すべきかという問題はここでは保留するが、とにかくも政治の対象は構成員全体である。一人一人が何を望んでいるか、一番よく分かっているのは本人のはずであり、万人の希望を哲人王がいちいち把握するのも不可能だろう。そうなると、構成員も政治参加すべきという考え方が説得力を持ってくる。

 

 

 さて、民主主義の定義については後回しにしてしまったが、今は素朴に「意思決定などは共同体の構成員全員で行うべきだ」という思想だと考えておこう。しかしこれは、単に構成員の意見を集約すれば済む話ではない。それについて考えるために、再び囚人のジレンマゲームを例に出してみよう。

 10人に対して10万円の賃金が用意されている時、構成員が自分の利益のみを優先して良いのなら、10人全員が自分だけ10万円を貰えるよう要求することになる。しかし、これを採用することは不可能であり、普通は「平等」に1万円ずつ配ることになるだろう。この場合、一人一人の「10万円ほしい」という要求は「特殊意思」と言い、それを単純に足し合わせた「10万円×10ほしい」という要求は「全体意志」と言う。そして、現実的に全員の要求を汲んだ「1人につき1万円ほしい」という要求は「一般意志」と呼ばれる。哲学者のルソーは、特殊意思を単純に足し合わせても一般意志にはならないと言ったそうだが、自分はそれを今書いたような例によって理解している。

 さて、上では単純な資源の配分問題を考えたのだが、現実にはもう少し複雑な問題を孕んでいる。例えば、10人が平等に仕事をしたのではなく、誰か一人に大きな責任がかかっていた場合、10万円を平等に分けることは「公平」ではないかもしれない。全員が納得できる一般意志なるものが常に存在すればいいのだが、そうでなければ全会一致の結論を出すことは難しいだろう。一般意志は実際には、誰かに代弁されてしまうものでもある。そうなると、本当に存在するか分からない一般意志を構成員に強制した場合には、民主主義はすぐさま全体主義へと変化してしまうかもしれない。例えば、共同体全体の利益のためには、時として進んで犠牲も払うべきだ、という風に。これは愛国主義的な考えと相性がいいだろう。

 

 また、意見を集約するための方法に多数決があるが、これにもいくつかの大きなジレンマがある。多数決の根本にあるのは、なるべく多くの人が幸福になるべきだという「最大多数の最大幸福」の考え方だろう。これは功利主義とも言われる。まず始めに、有名なトロッコ問題について考えてみよう。

 暴走する列車の先に5人の作業員がいる。このままだと、電車は5人全員をひき殺してしまう。一方、電車の進行方向を変えて待避線に進めば、そこにいる1人の作業員をひき殺すだけで済む。この時、路面電車の運転手はそのまま5人を死なせるべきか、それとも向きを変えて1人を死なせるべきか、という問題である。

 この問いについて一般的には、向きを変えて1人を死なせる方がまし、と考える人が多いようである。しかし、人によっては5人を犠牲にすると言う人もいる。理由は例えば、方向を変えると意図的にその1人を殺すことになるが、何もしなければ事故になる、というものがある。それに関連した問いとして、5人の作業員を救うために、陸橋に立っている1人を突き落として電車を止めることは許されるか、という問題もある。こうなると、わざわざ人間を突き落としてまで電車を止める行為には賛同しない人が多いだろう。要するに、人間の正義の基準としては、幸福になる「人数」だけでなく、幸福のための「手段」も重視することがよくあるのである。また、1人の方にいるのが自分の子供だったら、1人の方にハンドルを切ることは難しいかもしれない。そうなると、具体的にどんな人を犠牲にするかという「対象」についても、大きな判断材料になってくる。

 

 また、第1候補に1票だけを投じる単純多数決は、死票や票割れを生みやすいという問題もある。投票制度について研究する学問に社会的選択理論というのがあるが、例えばボルダルールという投票ルールを使うと、死票や票割れの問題を軽減することができる。また、ボルダルールやドント方式などで票を集計すると、投票ルールによってしばしば結果が変わることが知られている。そうなると、投票結果がそのまま民意を表しているとは言いがたいことになるだろう。

 また、何に対して投票するかも重要である。直接民主制の場合、人々は政策への是非を直接示すことができる。しかし、共同体の構成員全員が、全ての政策をいちいちチェックして、毎回全員で採決を取るのは現実的ではない。結局、一般的に採用されているのは代議制(間接)民主制が多いのだが、この場合には政策ではなく人間に対して投票を行うことになる。そうなると、何の政策を支持するかだけでなく、誰を信用するかということに大きな注意を払う必要が出てくる。

代議制民主制に関連して言えば、官僚機構の弊害に触れておくのも不自然ではないだろう。合理的に手続きを進めるために作られたはずの官僚制は、しばしば非合理的なことで悪名高いのである。

 

 加えて、先にアテナイ衆愚政治の例を出したように、安易な多数決による意思決定は暴走しやすい。ズートピアでも、恐怖の力を利用して、多数決で物事を決めようとするシーンがあった。また、集団で何かを行う時には、自分たちは正しいという感覚を抱きやすくなる。一度集団が暴走してしまうと、自浄作用も働きにくい。かつての大日本帝国の場合、陸軍・海軍・外務省で対外政策がバラバラだったり、決断を欠いた政治が戦況を複雑化させたりしていたが、その状況でも戦争を拡大することに賛成する国民は多かったそうだ。そして、その状況が変わるには300万人の死者を出し、敗戦するまで待たなければならなかった。

 

 

 その2に続く。

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ジ・アート・オブ ズートピア: THE ART OF ZOOTOPIA (CHRONICLE BOOKS)

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政治哲学入門

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「正義」は決められるのか?

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反哲学入門 (新潮文庫)

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脱常識の社会学 第二版――社会の読み方入門 (岩波現代文庫)

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多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

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イラストレート人間関係の心理学[第2版]

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丸山眞男―リベラリストの肖像 (岩波新書)

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ことばにできない想いを伝える: 非言語コミュニケーションの心理学

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テキストブック 法と国際社会〔第2版〕

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『この世界の片隅に』を読み解くための『現代現象学』(2)

 その1からの続き。

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 それでは、現象学では「美しさ」や「正しさ」などの価値については、どう考えるのだろうか。経験に基づいて価値を考えるというのは、あまり馴染みのない考え方かもしれない。まず一例として、『この世界の片隅に』の感想を一言で言いづらい理由として、「あまりにも多様な感情を抱かせるから」だという意見を取り上げたい。

 これはこの映画にそれだけ、様々な感情を抱く場面があったということだろう。誰かのしょうもない失敗を見た時、空から大量の爆弾が降るのを見た時などに、個人差はあれど人間は何かしらの感情を抱くだろう。思わず笑った時には「笑える」や「楽しい」、恐怖を感じた時には「怖い」や「悲しい」と感じる。こうした「感情」は特に思考によって生まれるものではなく、自分の意図とはほとんど無関係に経験されるものだ。

 そしてその感情は、物事の真善美を判断する時にも重視されるのではないだろうか。世間的に価値が高いと言われる芸術を見ても何も感じなかった場合、個人的にはその芸術に価値がないと判断するだろう。逆に世間は評価していないが、自分は価値を感じるものが存在することはあり得る。重要なのは、価値について語る場合、現実世界とは独立した超自然的原理としての「真善美」を考えるよりも、現実の知覚が感情や価値の土台を成していると考えた方が、日常の経験に即して考えやすいということだ。安易に「美しい」とか「正しい」といった言葉に価値判断を還元しようとすると、その価値の背景が見えにくくなってしまうが、価値判断をするためには、先に何かを経験する必要があるはずだ。

 哲学の世界では、「~である」から「~すべき」は導かれないとして、事実と価値は区別しなければならないという考え方もあり、「ヒュームの法則」という名前まで付けられている。確かに、事実から価値を導く時には、まず例外なく主観が入ってしまう。つまり、論理的推論としては間違っていることになる。しかし、そこで議論が終わってしまうと、普段日常的に行っている価値判断の過程を考えることができない。そうした問題にもアプローチできるのが、経験的事実を起点とする現象学の考え方なのである。日常生活での楽しみや戦争の被害などを見て幸福や不幸などを感じることは、例外や個人差はあるだろうが、ごく一般的な経験なのではないだろうか。そして『この世界の片隅に』では、様々な感情を経験させる場面を、緻密に散りばめていたと言えるのではないかと思う。

 

 少し話は逸れるが、他に安易に「還元」されていると思う言葉として、「日常」と「戦争」という単語も取り上げたい。『この世界の片隅に』の感想として、「日常の中に戦争の影がじわじわ入ってくるのが怖かった」というものを見たことがある。しかし、そもそも日常や戦争という単語は何を指しているのだろうか。

 これにしても、日常や戦争という概念が先に存在している訳ではない。料理や洗濯といった行為などをまとめて「日常」、軍艦や爆弾による戦闘行為などをまとめて「戦争」と言っているはずである。それがいつの間にか「日常」や「戦争」という記号で物事が語られるようになったのではないか。「日常の中に戦争が入ってくる」という表現は、そうした記号的表現が物事をうまく区別できず、機能していない状況から生まれているのではないだろうか。『この世界の片隅に』に描かれるものの多くは、日常にも戦争にも関係があるものとして登場していたはずだ。そうは言いつつも、この記事でも日常や戦争という語句を多用してしまっているが、あくまでもそうした語句は、様々な物事をカテゴライズするための語句だと考えた方がよいと思う。ある語句がどう定義され、どう説明に使えるかという問題は、政治学などに触れる時などでもよく疑問に思うのだが、記号としての言葉の問題はしばしば無視されがちな気がしてならない。

 

 

 

 そして、この映画を語る際にしばしば取り上げられるのが、人生についての問いである。幸運にも『現代現象学』の中でも、「人生の意味」を問う章が設けられている。哲学という学問は、意外にも人生について考察することが少ないのだが、この本では珍しくストレートに扱っている。人生の意味というのも、論理的推論だけでは恐らく何も語りようがない。あるいは、人生に生きる意味などない、目的も存在しないという、ニヒリズム的な結論を導きがちである。実際、ある事実から「論理的に」何らかの価値判断を導くのは、ほとんど不可能だろう。

 だがそうは言っても、距離を置いてはならないと感じるものが、誰にでもあるのではないかと本では問う。親にとっての子供や、芸術家にとっての芸術が例えばそうであり、それは『この世界の片隅に』にも通じるところがあるだろう。径子さんにとっての晴美ちゃんや、すずさんにとっての絵を描く行為がそうである。とはいえ、そうした大切なものが失われる可能性についても考えなくてはならない。人生の「脆さ」を前にして、なおも意味ある人生というものを考えることはできるだろうか。

 

 これは、「哲学を学ぶ意味」にも通じる問いである。人間は普段の日常的な経験から、様々な推定をしながら生活している。しかしそうした推定は、当然間違える可能性がある。それは人間が不完全な存在だからであるが、とは言え「世界に確かなものなど何も無い」と認める必要もない。恐らく論理的推論「のみ」を頼る限りでは、そういう思考に陥ることもあるだろう。それでも、確かめようのないこともある程度受け入れなければ、まともに生活できなくなってしまう。それでも強硬に「世界に確かなものなど何も無い」と言うならば、店に行けば食品が売ってるから買いに行こうとか、死にたいから首を吊れば死ねるだろうという、あらゆる推測が無意味になる。仏教でいう涅槃の境地にでも至れるなら別かもしれないが、まず間違いなくほとんどの人間は、日常的な経験まで疑うことは不可能だろう。ただ、あくまでも経験する限りでの世界が存在するという結論は、ある意味で信仰に近いものを含んでおり、態度が哲学を学ぶ前に戻ってしまうことにもなる。

 しかし、例えば科学の驚くべき整合性などを考えると、経験から論理的に構築される世界像は、現実の世界と近似的であれかなり一致している、と考える方が合理的ではないだろうか。物を投げれば落ちること、体には血液が巡っていることなどを疑うと言うのであれば、きちんとした「疑うべき理由」も示すべきではないのか。それでも頑なに「物を投げれば落ちるという経験も信用できない」などと言うならば、試しに崖の上から飛び降りてみればいい。飛び降りれば地面に落下し、怪我をすれば血を流すはずだ。たとえ五感で感じる経験が幻覚のようなものに過ぎないとしても、その「経験自体」をも疑うことは難しいだろう。不確かなことがあることは認めても、何も語りえない訳ではないというのは、そういうことである。

 こうした立場には生きる上でのメリットもあると思う。まず人間の不完全さを自覚した者は、物事についての真理を手にしうると考える独断論に陥ることがなくなる。そして、それでもなおも生活し続けるために、物事の存在や意味を認めたなら、物事について何も語りえないと考える懐疑論をも退けることができる。経験自体は疑えないと認めたならば、そこから他者と共通了解を作っていき、コミュニケーションを図ることも可能なはずである。そして、自らの不完全さを自覚しながらも、この世界に生きることを受け入れる姿勢とは、まさしく『この世界の片隅に』のラストにも通じる姿勢なのではないだろうか。すずさんを含む登場人物たちは、恐らく独断論懐疑論からはかなりかけ離れた立ち位置にいたはずである。

 

 

 話をまとめよう。現象学においては、人々が見出す様々な価値の背景には、現実の経験が重要な基礎として存在すると考える。逆に、現実離れした観念的な「真善美」については、究極的には考えない。一方、『この世界の片隅に』では「一言で語れない」といった感想をよく見たが、これは感想を簡潔な記号的表現に還元しようとするから難しくなるのではないか。多くの「片隅」が集まって「世界」が出来ていることを理解したならば、物事の大枠をいきなり掴もうとするのは避けるべきだろう。それよりは、事実から価値を見出す経験に注目し、映画でどのような感情をどの場面で経験したかを丁寧に追う方が、感じたことを上手く説明しやすくなるはずだ。そして、この映画を通じて人生の意味をも問う時、人間の不完全さを認めながらも生きることを受け入れる姿勢が、この映画を読み解く重要なヒントになるのではないかということだ。

 

 映画における事実の羅列から価値が生まれる現象を考察するというので、できればモンタージュ理論やコンティニュイティ(連続性)や意味論・語用論などについても書きたかったが、このくらいにしておきたい。断片的な話は以下を参照のこと。

 

 

 

 

 

 前々から映画などを語る際に、「雰囲気がいい」とか「打ちのめされる」とか「胸が張り裂けそう」とか「言葉で言い表せない」などの記号化された言葉に還元することには違和感を感じていた。『この世界の片隅に』の中身を分析するまではできなかったが、前提となる話はできたのではと思う。

 

 

 

<参考>
片渕須直監督, こうの史代原作, 『この世界の片隅に』, MAPPA (2016)
この世界の片隅に」製作委員会, 『この世界の片隅に 劇場アニメ絵コンテ集』, 双葉社 (2016)
植村玄輝他編, 『現代現象学 経験から始める哲学入門』, 新曜社 (2017)
田口茂, 『現象学という思考 〈自明なもの〉の知へ』, 筑摩書房 (2014)
木田元, 『反哲学入門』, 新潮社 (2010)
S. Weinberg, 『科学の発見』, 赤根洋子訳, 岩波書店 (2010)
A. Sokal, J. Bricmont, 『「知」の欺瞞』, 田崎晴明他訳, 岩波書店 (2012)
友枝敏雄他編, 『社会学の力』, 有斐閣 (2017)
R. Collins, 『脱常識の社会学 第二版』, 井上俊, 磯部卓三訳, 岩波書店 (2013)
富野由悠季, 『映像の原則 改訂版』, キネマ旬報社 (2011)

 

 

  

この世界の片隅に 劇場アニメ絵コンテ集

この世界の片隅に 劇場アニメ絵コンテ集

 

 

現代現象学―経験から始める哲学入門 (ワードマップ)

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科学の発見

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「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)

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脱常識の社会学 第二版――社会の読み方入門 (岩波現代文庫)

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映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

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