経験的事実と論理的推論から何かをやりたい人。

まず確認したい「不安定な個人」のこと

 何年か前から、ある小説を書こうとしてずっと書けずにいる。元々、高校くらいから小説をたまに書くことがあった。とりあえず反応が知りたくてネットに公開したこともあるが、基本的には友人などに見せて感想を貰ったりしていた。

 正直な所、文章を書くのはそこまで得意ではないと思う。単純に何かを表現するのは好きだが、作家になろうとは今でも思っていないし、小説に限らず、熱が冷めたら途中で止めたものも沢山ある。しかし、数年前から書こうとしているものは今までと違い、まずおよそ小説とは関係なさそうな専門書を読み漁り、そこから物語が浮かんで繋がりかけては失敗し、何度も設定を変えては考え直すということを繰り返している。

 こう言うと、大風呂敷を広げるだけ広げて、いつまでも書かないダメな作家志望の人間にしか見えない。いや実質的にそうなのかもしれないが、自分の中でその小説を書くこと、それが無理ならせめて背景にある思想を考えることが重要だと感じていて、なかなか諦めきれずにいる。

 

 

 つい最近まで、テーマ(あるいはコンセプト)を言うことにも苦労していたが、やっとそれなりに納得できる表現が見つかった。テーマを一言で言えば、「不安定な無意識や環境を前提にした上で、各個人はどう生きるべきか」になると思う。

 

 個人的な経験を元に、もう少し説明してみる。小学生くらいまでの自分は、とにかく我慢するということが苦手な子供だった。体がゴソゴソ動く程度ならまだいいが、気に入らないことがあればすぐに手を出したりして、親や先生や友達にも怒られることが日常茶飯事だった。しかし、姿勢が悪かったり暴力を振るうことが良くないことは自分でも分かっていたし、怒られる時には「なぜそんなことをするの?」などと言われたりするのだが、理由は自分でもよく分からないのだった。

 今にして思えば、これが「無意識」という概念との初めての出会いだった。最近では発達障害という言葉もよく聞くが、自分もそうした傾向のある人なのかもしれない。だが、実のところ全ての知覚・感情・思考の類をコントロールできるような人間は、まずいないと言っていいはずだ。たとえ大人でも、一時の感情に飲まれてしまうことは少なくないし、一挙手一投足に意識を向けて生活することなど不可能に近い。しかも人間である以上、病気や老化、事故なども避けることはできず、そうした節目に応じて性格や考え方が変化することも珍しくない。「意識」や「理性」といったものは、そうした「不安定な無意識」に依拠している。

 

 また、もう一つの象徴的な経験としては、2011年頃の記憶を強く思い出す。別に、自分は東日本大震災の被災者ではないし、身内で亡くなった人ですら一人もいない。ただ、自分が人並みに思い悩んだ思春期の後、高校を卒業して大学へ入学する間の3月11日に地震が起き、地震以外にも多様な事件があって不安になったのは確かだった。この頃は、大学受験、大学の講義の受講、サークル活動を含め、個人的にも色々なことがあった。しかしその他に、アラブの春東日本大震災原発事故、ユーロ危機といった、自分から離れた所でも社会問題が多発し、ビンラディンジョブズカダフィ大佐金正日が死んだりもした。

 元から新聞やニュースを見ることはあったのだが、自分とどこかで繋がっている「社会」というものを強く意識し始めたのは、恐らくこの前後からだと思う。自分とは関係ない所で世の中が動き、いつの間にか自分が影響を受けてしまうことの恐怖は、大学受験直後の東日本大震災やその後の混乱を見てピークに達したのだった。大学入学後には、たまたま現代思想に興味を持ち、その流れから自由意思などに否定的な構造主義などの話に興味を持ったりした。その一方で、理工系の講義も自分なりに真面目に受けていたのだが、それは安易に諦観せずに信頼できる概念を見出したいという気持ちもあった。しかし、それこそ物理などを学んでいれば、出来ることや出来ないことの知識が強化されるばかりで、一個人の力などほとんど皆無に等しく、逆に環境に影響されてしまうことが避けられないと分かってくる。影響を与える原因は災害に限らず、戦争や事件・事故のほか、物理法則などのもっと身近なことも挙げられるのだ。「個人」や「自己」といったものは、そうした「不安定な環境」の影響も受け続けている。

 

 

 ざっくりとではあるが、例えば「私はこういう人です」と言う時の「私」、理性のコントロール化にある「私」というのは、今述べたような内なる「無意識」とか外なる「環境」の影響を、かなり受けているはずだ。しかし注意を払えば、自分たちが普段は気付かないことでもある程度は目を向けられるし、そこから積み上げていけることもあると思っている。

 自分が今書こうとしている小説では、まず主人公が精神の拠り所にしているものが崩れるシーンが、どこかで必要だと思っている。そしてその前後を通じて、今まで意識していなかった重要な事柄に気付いていき、改めて自分らしさを獲得しようと懸命に生きる姿を描きたい。しかし、これをちゃんと書こうとすると途方もなく、まずは勉強とばかりに思い当たった専門書や評論やルポや小説を読んだりするという、訳の分からない状態になっている。とにかく大変なのは間違いないし、ほとんど無謀な試みなのだが、けれどもそれを考える意味は今でもあるような気がしている。

 どんな人でも、普段の生活を送る中では大なり小なり、何かしらの選択をし続けているはずだ。そこで自律的に行動するためには、何かしらの価値判断基準を持つ必要がある。その辺りの価値観について、「合理性」を重視する人もいるだろうが、本来これは何でもいいものだと思う。とにかく、何を優先するかという広い意味での倫理観、説得力のある根拠に裏打ちされた倫理というのを、少し考えてみたいと思っている。

 

 最後に付け足すと、この文章の内容はいかにも哲学や現代思想の影響を受けているようだが、改めて考えるとむしろ生物学に影響されている気がする。ある人間の形質の由来を考える上で「遺伝子か環境か」、俗っぽく言えば「生まれか育ちか」を問うことは、生物学の世界ではナンセンスだとされる。要するに、遺伝子か環境の片方だけである形質が発現するとは限らず、両方が揃って初めて特定の形質が外に現れてくるのである。

 ここで、遺伝子レベルの話を少し発展させて、人間の性格の由来を考えてみる。もし人間の性格が遺伝子だけで決まるなら、一卵性双生児の2人はほぼ同じ性格になるはずだ。しかし、実際にはどういう環境で育ったかで、2人の性格は大きく変わりうる。一卵性双生児の2人が異なる仕事に就いたら、能力も含めてかなり違いが出るはずだ。逆に、似た環境で育った人たちがみんな似た性格になるかというと、これも違うだろう。似た環境で生活していても、そこでどう振舞うかはそれぞれ異なるだろう。

 ある人間の性格は、生まれつきの特性と過去の経験に影響されて決まっていくと考えられる。自分が書く主人公の性格も、その辺りに注意して物語を考え、心の動きを表現していければと思っている。延々と外堀を埋め続ける作業のようだが、独りよがりなことは書きたくないので、大事にしたい。その上で、意思決定をどう考えるかは、心理学などの知識が役立ちそうだが、まだ勉強不足の部分が多い。

 物語の軸も多少決めてはいるのだが、その前にお膳立てしたいことが多すぎる。今日はひとまずここまで。あと、引用したからと言って考察が正しいとは限らないとは思うのだが、後で記録として参照できるように、参考にしたものも書いておくことにする。

 

 

<参考>
和田純夫, 『一般教養としての物理学入門』, 岩波書店 (2001)
J. de Paula, P. W. Atkins, 『アトキンス 物理化学(上) 第8版』千原秀昭・中村亘男訳, 東京化学同人 (2009)
E. J. Simon他, 『エッセンシャル キャンベル生物学 原書6版』, 池内昌彦他監訳, 丸善出版 (2016)
G. Marcus, 『心を生みだす遺伝子』, 大隅典子訳, 岩波書店 (2010)
R. Collins, 『脱常識の社会学 第二版』, 井上俊・磯部卓三訳, 岩波書店 (2013)
木田元, 『反哲学入門』, 新潮社 (2015)
佐伯啓思, 『西欧近代を問い直す』, PHP研究所 (2014)
自由国民社編, 『現代用語の基礎知識 2012年版』, 自由国民社 (2011)
重松清, 『世紀末の隣人』, 講談社 (2003)
是枝裕和監督, 『誰も知らない』, テレビマンユニオン (2004)
小松左京, 『日本沈没』, 小学館 (2005)
片渕須直監督, こうの史代原作, 『この世界の片隅に』, MAPPA (2016)