経験的事実と論理的推論から何かをやりたい人。

自分勝手を越えて他者と関わる心理

 前回の記事では、今の自分が何か思考のヒントになりそうな小説を考えていて、同時に学問的な知識をある程度固めようとしていることを書いた。何だか堅苦しい内容になってしまったが、まずは出発点として「人間の理性は、内からの無意識や外からの環境の影響を絶えず受けていて、あまり安定したものではない」ということを述べようとした。

 「不安定な個人」というテーマは、評論文などでもしばしば扱われるものだと思う。そして、評論として取り上げられる時には、現代思想系の流れを汲んで、近代西洋の成り立ちなどを考察し、その問題点を批判する類のものがよくある。この場合には引用として、ニーチェヴェーバーフロイトフーコーなど(他にも沢山)を挙げたりする。

 個人的に、現代思想と言えば近代西洋批判、くらいのイメージがある。もっと噛み砕いて言えば、合理主義を批判するのが現代思想のイメージだ。合理主義だけを挙げると単純すぎるように思えるが、合理主義によって宗教的・伝統的なものが批判され、科学や経済の発展が促され、個人主義や民主主義などのイデオロギーが生まれ、自由・平等・博愛といった価値観が重視され、世界大戦や資本主義・帝国主義共産主義などがもたらされたと考えるなら、そう的外れではないはずだ。実際、今挙げた単語のほとんどは、評論文において恰好の批判対象になる。

 

 自分が書こうとしている小説では、なるべく今の社会を反映した世界観にしたいので、この辺りの知識もできるだけ蓄えておきたい。けれども、ひたすら近代西洋について考察する主人公というのは、流石につまらないと感じる。そもそも近代西洋に対する考察が、現代の日本とかにそのまま当てはまるとは思えないし、「不安定な個人」をもっと一般的な形で捉え、なおかつ単純化して考えたい。

 素朴に考えるなら、まず自分と他者との対人関係を問題にすればいいと思う。みんな全ての人と上手くやれればいいが、中には関わりたくない人も出るだろうし、逆にもっと関係を持ちたい人も出るだろう。しかし、対人関係はそう都合よくいかない。そして時には、闘争を引き起こして大きな不利益を被ることもある。そこで、何かしらの集団を作り、自分達の生存を守るという発想が生まれる。他の選択肢としては、他者との関係を思い切って断つことも考えられるが、大抵の人は一人だけで生きることは難しい。これは近代西洋社会に限らず、いつの時代、どこの場所でも言えることだ。

 自分の場合、日本という国に生まれ、日本語を話して暮らしているが、これらは自分で作ったものではない。学校や会社というシステムも生まれる前からあったもので、そこに不便さを感じても、すぐに自分でどうこうできるものではない。また、辺りを見回してみると、どれもこれも人工品ばかりである。今触っているパソコンもそうだし、衣服もそうだ。むしろ、人工品でないものを探す方が難しい。そして別の見方をすれば、身の回りは商品で溢れている。パソコンも衣服も商品として買ったものだ。こうした物を作りだすシステムはとても便利で、店の棚には大量の食べ物や衣服が並ぶようになり、少し外へ出れば手に入る。一方、それらは一人だと作り方さえ分からないものがほとんどで、たとえ不便さを感じても自分では対処しづらい。でもそれが嫌だと言って、本当の意味で独りで生きようとする人は稀だろう。

 多くの人間が集団生活を送るには、多くのルールやツールが必要になるが、却って不便さを生む源にもなっているのは皮肉としか言いようがない。例えば、合理性が生んだはずの官僚制度も、その非合理性が格好の批判対象になっている。自分勝手に気ままに生きたい。でも他者との関わりも持ちたい。そんなジレンマは、恐らく誰しもが抱きうるものだ。

 

 

 話は変わるが、ゲーム理論(合理的選択理論)には面白い話が多い。ゲーム理論では「個人」の人間が「合理性」に従って動くという前提があるが、まず有名なものとしては囚人のジレンマゲームがある。軍縮のジレンマなども同じ範疇に入るが、今回は相手との約束を守るかどうか、という問題で考える。プレーヤーはとりあえずA、Bの2人で、互いに連絡が取れない状況下で、相手との約束を守るかどうかを選ぶとする。ここで、もし2人が守れば2人とも利益を得る。2人が守らなければ2人とも不利益を被る。片方が守り、もう片方が守らない時は、守った方が最大の不利益を被り、守らない方は最大の利益を得る。このようなゲームがあった時、プレーヤーはどのような選択をするかを考える。

 この問題は図表を使うと分かりやすいが、手間なので今回は省略する。まずBが約束を守る時、Aは守らない方が利益が大きくなる。またBが約束を守らない時も、Aは守らない方が利益が大きい。そして、2人とも同じことを考えるので、このゲームでは互いに約束を守らないことになる。その結果、本当は互いに約束を守った方が利益が大きいのに、約束を守らない小さな利益の方で、社会が均衡することになる。

 約束を守らない方が得になるケースは、日常生活ではあまりないと感じるかもしれない。現実社会でいつも他者を裏切っていたら、誰からも相手にされなくなり、まともに生きられないだろう。しかし、先程のゲームは選択を一度しかしないというルールだ。1回限りの付き合いしかない相手と何か約束をする場合、相手が約束を破らないように念を押すのはよくあることだと思う。例えば、契約書を書くとかするはずだ。そこで、囚人のジレンマゲームを繰り返したらどうなるのかという疑問が出る。これには実はコンピュータシミュレーションを用いる手法があり、相手が協調した時は次に協調、相手が裏切った時は次に裏切る、という「しっぺ返し戦略」が大きな利益を上げるそうだ。これは現実の人間の考え方に近いと思う。

 しかし、いくら現実の考え方に近いと言っても、誰かと約束をする度に、相手が毎回必ず約束を守るという保証はない。約束というのは、相手も守ってくれるだろうと信頼して、初めて出来るものだ。しかしこの信頼というものは厄介で、裏付けをとることがほとんど不可能に近い。実は契約書を書いても、その契約書が守られるという保証はない。警察や裁判所があると言うかもしれないが、それを管理しているのも「社会契約」に基づく国家だとされている。結局のところ、もし本当にみんなが私利私欲で動いたら、誰も信頼し合わず、社会は崩壊してしまうのだ。しっぺ返し戦略において実際に「協調」を選ぶためには、ある程度他者を信頼する必要がある。しかし合理的に考えるなら、他者を信頼する理由は無いのだから、誰かと約束を結ぶことはできない。社会を作ることは不可能ではないのか。

 

 

 しかし現実を見ると、社会は存在している。この矛盾をどう説明するのか。この説明にはまずゲーム理論から離れて、宗教社会学を用いる方法がある。大元はデュルケムの儀礼論で、何らかの儀礼によって何かしらの象徴が人々の間で共有され、それによって社会が作られるという主張である。もう少し具体的には、みんなで礼拝や祭礼などを行い、何か聖なるものを共有することで、社会集団の結びつきを作るのである。元々これは宗教に関する理論だが、状況は現代社会でもさほど変わらない。国民、国家、紙幣、自由、平等、民主主義といった、現代社会を支える多くの価値観は、とても重要視されているが、どれも実体が無いものばかりである。ビジネスにおいても、何かしらの理念やマナーが大事にされるが、それらはしばしば「非合理的」だとしてやり玉に上がったりする。

 けれども、結局はそういう非合理的概念が無ければ、社会の結びつきを強めることは難しいのである。挨拶をしない、話も合わせない、広い意味での「儀礼」を一切しない人がいたら、取っつきづらいと感じる人が多いはずだ。人に悪い第一印象を与えるのは簡単で、不潔な体とダサい服装があれば十分だろう。さらに挙動不審だったりすれば完璧で、その人は直ちに社交性がない人と見られるだろう。

 また、「儀礼」は社会を作る一方で、それに従わない人は悪として排除することもある。宗教的ドグマが近代化したものが政治的イデオロギーと考えるなら、政治闘争に宗教性を見出すことは簡単なはずだ。また、手続きを重んじて人を裁くという行為も、一種の「儀礼」かもしれない。こうした儀礼論は、恋愛や結婚の話に当てはめてみても面白い。互いの人格を「聖なるもの」として尊重する風潮も、かなり様々な社会に当てはめられる。

 相互行為儀礼としてのコミュニケーションでは、舞台に例えられる社会の中で、人々がどう表現(演技)を行うかが注目される。社会では相手を尊重するために、相手の人格が傷つきそうな時にはフォローをしたり、あえて無関心を装って敵対心を感じさせないよう配慮することがある。これらの行動は、合理的選択理論だけではうまく説明できないものだと思う。社会に溶け込むために他者へ気配りすることは重要だと思うが、純粋に利己的に考えるならば、社会と関わるべきはっきりした理由が特にある訳ではないので、気配りをするべき理由もないはずだ。

 

 

 しかし、単に儀礼論を出しただけでは、まだ説明として不十分だと思う。なぜなら、「人々がわざわざ儀礼的行為を行う動機」の説明がないからだ。結局のところ、これに対しては、「人間には他者と関わろうとする欲求がある」と認めれば話がすっきりすると思う。

 社会心理学では、人間には一般に「自己評価維持モデル」における行動や、「親和欲求」による仲間といたがる行動、他者を援助したいと思う「援助行動」などが存在すると認めている。自分を評価する適当な比較相手と競争したり、不安な時にそれを和らげる相手を見つけたり、時には他者に援助をしたりして、人々は安心感を得るというのである。

 この心理は、しっぺ返し戦略にも通じる部分があると思う。しっぺ返し戦略は、自分の利益を重視しつつも他者と関わろうとする心理から生まれる、と考えればよいのだ。他者と関わりたいという欲求によって、「相手は裏切るのでは」という疑問を超えて、他者との関係を持てるようになる。そしてそれは結果的に、互いに裏切りあうよりも大きな利益を得られる。繰り返し囚人のジレンマゲームにおいて、非協調戦略よりもしっぺ返し戦略が有利ということは、つまり他者と関わらない人々は自然淘汰されるのだ。

 基本的に人間は、他者と比べて平均以上でありたいと思っているだろう。特に自分が重要だと思っている能力については、自分の方が優れていると考えられれば、自尊心を保つことができる。自然選択されて生き残ったのは、他者に関心を持ち、儀礼的行為を行い、何らかの倫理観を共有し、しっぺ返し戦略をとる人達だったのではないか。人間以外の動物を考えても、自分が生存するための行動をとる他に、他の個体と何らかの意思疎通や協調行動、支配的行動などをとる動物は多い(儀礼論はあまり適用できないと思うが)。むしろ、「合理的な個人像」を想定することに無理があるかもしれない。「人間は合理的と言うよりも社会的動物である」みたいな言葉は心理学の本などでも見るが、ゲーム理論から考えると却って人間の合理性が否定されるというのは面白い。

 自分勝手に気ままに生きたい。でも他者との関わりも持ちたい。そんなジレンマを抱えながらしっぺ返し戦略をとることが、実は社会で最も有利なのかもしれない。だがもちろん、そう考える個人の行動は様々に変化し続けている訳で、心理的には不安定と言っていいと思う。しっぺ返し戦略的に生きるのであれば、直前にどのような対人関係を持ったかによって、態度を大きく変えることになる。これは少し、人間心理を単純化しすぎているかもしれないが、自分が描く小説の主人公も、他者との距離感に悩むことにはなるだろう。

 

 自己と他者、個人と社会といった話題は、自己実現やら倫理観などの話とも絡めることができ、問題はなかなか複雑だ。それらについては、また日を改めて考えたい。

 

 

<参考>
木田元, 『反哲学入門』, 新潮社 (2010)
木田元, 『対訳 技術の正体 The True Nature of Technology』, M. Emmerich訳, 新潮社 (2013)
L. Dartnell, 『この世界が消えたあとの 科学文明のつくりかた』, 東郷えりか訳, 河出書房新社 (2015)
佐伯啓思, 『西欧近代を問い直す』, PHP研究所 (2014)
佐伯啓思, 『20世紀とは何だったのか』, PHP研究所 (2015)
岡本裕一朗, 『フランス現代思想史』, 中央公論新社 (2015)
A. Sokal, J. Bricmont, 『「知」の欺瞞』, 田崎晴明他訳, 岩波書店 (2012)
小林盾, 海野道郎, 『数理社会学の理論と方法』, 勁草書房 (2016)
R. Collins, 『脱常識の社会学 第二版』, 井上俊, 磯部卓三訳, 岩波書店 (2013)
友枝敏雄他編, 『社会学の力』, 有斐閣 (2017)
齊藤勇, 『イラストレート人間関係の心理学 第2版』, 誠信書房 (2015)