経験的事実と論理的推論から何かをやりたい人。

14年前に亡くなった女の子と、文章を書く意味について

 あまりにも個人的すぎることを書くのはなるべく止めるつもりでいたが、やはり読み物を書く動機というのは明確にした方が良い気がして、自分の創作の起点については書いておきたいと思う。起点と言っても一つだけではないはずだが、何か色々と思い出した折に書ければと思っている。

 

 

 起点の一つとして、これは小学5年生のことになるのだが、近所に住む同級生の女の子が亡くなった。仮にAさんとしておくが、これが身近な人を亡くした初めての経験だった。自分が覚えている限りでは、Aさんに友達らしい友達はいなかった。登下校時にはAさんと同じ班で帰ることになっていたが、当時の班にいた同学年5人のうち、4人は自分を含めた男子、残りの1人が女子のAさんという形で、しかもAさんはかなり内向的だったから、1人で帰る姿をよく見た記憶がある。小学生男子4人なんかはそれほど他人に気配りできる訳もなく、Aさんの容姿に対して悪口を言ったりもしたし、自然とAさんを仲間外れにする構図ができてしまっていた。

 小学5年生の12月頃だったと思うが、いつも通りに帰ろうとする際、Aさんがまだいないのに先に帰ることになった。帰り道、同じ班のB君と話して、そこでAさんが入院したらしいと知った。AさんとB君の家は隣同士で、理由を聞いてみると、どうも一酸化炭素中毒らしいと分かった。丁度ストーブを使い始める時期だったが、家で部屋を閉めきってでもいたのだろう。

 とはいえ、今で言えば正常バイアスとでも言うのだろうが、当時の自分はまだ「入院」の意味を軽く考えていた。まだ死んだ訳ではない、一命を取り留めたのなら良かった、とむしろ安心していたように思う。

 

 次の日になり、帰りの会が始まってから、先生が教室に来て話を始めた。「Aさんのことですが……」と言うのを聞き、自分はどういう訳か能天気に「あ、知ってます!」などと言ったりした。当時の自分はかなりのお調子者だったのだが、先生は特に気に留めず、「Aさんは病院で亡くなりました」と言った。そこで初めて、自分も事の重大さに気が付いた。先生は「ストーブの不完全燃焼による一酸化炭素中毒で」と続けた。

 帰りは下駄箱付近で全員集まった。当時、同学年の教室は2クラスで、それぞれのクラスの先生が前で少し話し、それから帰った。班ごとに校門を出れば、そこからは四方八方に別々の道を帰る。自分の班もやがて他の班と距離が開いていく。それから、今日の大事件に一番近い班は自分の班なのだと意識し始めると、今まで感じたことのないような不安に襲われた。

 それからまたB君と話した。B君が言うには、最初にB君の家に救急車が間違って入り、Aさんのお母さんがパニックになりながら、救急車の人を「早く早く」と急かしているのを見たと言っていた。

  家に帰り、一応親にも言わなければと思った。しかし、入院したことすら言っていない。いきなり「死んだ」ことを伝えた。母も驚いて、同じ通学班の子の親に確認の電話をしたりした。自分もずっと落ち着かなかったが、母がかなりショックを受けているのを見て、「やはりAさんが死んだのは大事件なのか」と、また急にAさんの死が現実味を帯びた。

 それからの出来事はあまり覚えていないが、葬儀が近親者だけで行われたことや、Aさんが死んだ後もしばらく机が残され、席替えの時には一番後ろに置かれていたことなどは、かろうじて覚えている。

 ちょっかいをかける時くらいしか話さなかったようなAさんが、突然亡くなった。死んだ直後はあまり実感がないが、半年も過ぎると、小学生といえどいずれ罪悪感というのが出てくる。

 ひとたびAさんを思い起こすと、一人で頭を下げながら帰っている様子が目に浮かんだ。家から学校までは30分ほどあったから、それなりに長い。苦痛だったかもしれない。5年冬の学芸会の写真にはAさんが写っていても、6年の修学旅行の写真にはいない。普段は忘れていても、ふとした時にたまに思い出してしまう。この出来事は、罪の意識がなくかつ自分自身を制御できていないうちに、誰かを不幸にしてしまうことはあるのか、そんな問いを考えるきっかけになっていると思う。

 

 やがて卒業式を迎えるのだが、そこでまた一つ余談がある。卒業式のリハーサルで在校生の女子Cさんが、1人でとある卒業生との思い出を話す場面があった。それはCさんが低学年の頃の話で、Cさんが一人で帰っている時に、ある上級生が「一緒に行こう」と言ってくれたという話だった。自分は他学年との交流があまり無かったので、そんな人もいるのか、と聞き流していた。

 しかし、その頃の階段の踊り場には「在校生から卒業生へのメッセージ」なるものが貼られていて、ある時に自分宛てのものがないかと探してみたら、唯一あったのがそのCさんからの手紙だった。読んでみると、内容はあの「一緒に帰ろうと誘った上級生」の話だった。

 これは卒業式の数日前だった気がするが、つい思い出してしまったのはAさんのことだった。正直、Aさんのことを生前どう思っていたかと考えても、特に何とも思っていなかったのが現実なのだが、まあもう少し気配りができていれば、というのは考えてしまった。でもAさんが生きていたとしても、Aさんに「一緒に帰ろう」と言うことはなかった気もする。そう言えば、AさんとCさんも一応近所だから、学年の違う2人で帰る所はたまに見た記憶があるが、2人は互いのことをどう思っていたのだろうか。

 

 

 時間がずっと進んで、去年のことになるが、当時の同級生D君と会った時に、たまたまAさんのことを話す機会があった。するとD君は、Aさんの得意科目は理科で、テスト結果を見せて貰ったことがあると話してくれた。自分は10年越しに知ったのだが、Aさんは理科が得意なリケジョだったのかもしれない。

 今回、Aさんのことをブログに書くにあたって、小学生の頃の写真を探してみたりした。どれがAさんかは割と分かったが、改めて写真を見ると、どうもAさんの表情が乏しい。4年生くらいまでは、春の全体写真を見ても、冬の学芸会の写真を見ても、口を一文字に結んでいて、目も笑っていない。けれども、5年生の写真になると、少し口元が緩んでいる。

 ここで、Aさんの心に変化があったと考えるのは早計な気はする。よく見ると、自分だってそこまで笑っていない。そもそも自分も割と内向的な性格ではあるが、まず集合写真を撮る時に笑顔でいるのは少し訓練が必要だと思うし、低学年の頃の写真を見ると、むしろ笑っている子の方が少なかったりする。

 Aさんにしても自分にしても、ある頃から笑顔が増えているのは、恐らく同じ理由からだ。それは現実に楽しかったからかもしれないが、それ以上に愛想を振りまくことを知らない状態から、楽しさを表現する社交性を身に着ける途上にあったのだと思う。それは言わば、他者を意識して大人になる途上だったのであり、そういう意味ではAさんの大人の一面を垣間見ているのかもしれない。

 あまり強調するつもりもないが、特に自分がAさんを好きだったようなことは無いし、生きていたとしても疎遠なままだったと思う。ただ、改めて今思い返してみると、自分とAさんには何か通じるものを感じてしまう。親近感を覚えるのである。単に自分も理系の道に進んだとかいう以外にも、例えば当時、通学班の5人のうち、自分以外の4人が女の子だったら……? ひょっとすると、そんなことで立場は逆になったかもしれない。一人で帰るあの姿は、自分だったのかもしれない。しかしこんな想像も、Aさんが死んだから初めて考えたことであって、皮肉と同時に不謹慎さもどこかで感じてしまう。

 

 小学生の頃の自分というと、そんなに大人しいタイプではなかったと思うのだが、ようやくこの前後くらいから性格が落ち着いてきたような気がする。それは単純に成長したという以外に、Aさんに起きた不幸という外的要因も、全くなかった訳ではないと思う。

 こうして文章にしてみると、こうしたことを人に話す機会もほとんど無かったことに気づく。面と向かって言いにくいことでも、文章なら言いやすいといった話はたまに聞くが、実のところその意味はかなり重要だと感じている。小説や音楽の存在意義を問う時、より良く生きるために必要なのだという答え方をよく見る気がするが、もっと実用的な意味で、自己表現の手段としてちゃんと使えるのではと思っている。今回の内容については、特に人に言う機会があれば話してもいいのだが、わざわざ話す機会がない。「自分はこうしたことを考えているのだけど、他の人はどう思うか」といった疑問は、文章でもなければ表現する機会が少ない。

 例えば太宰なんかに傾倒して、その表現論を語るような類のものは星の数ほどある。けれども、創作行為を自己表現や他者理解といった意思伝達の手段と見なしたり、メンタルヘルス的な影響を考えることなどについては、あまり注目されていない気がする。

 

 あとよく考えると、自分とAさんは2回ほど一緒に遊んだことがあった。小学校に入ってすぐくらいの頃で、自分の家でテレビゲームでもしていたのだと思う。ただ、Aさんが確かゲームにあまり興味を持たず、他にやることが少なかったので、一緒に遊ぶことはすぐにやめてしまった。けれども、その年の正月にはAさんからの年賀状が来て、挨拶文と共にハム太郎のシールなんかも貼られていたのだが、それは今も残してある。その年賀状は見て悲しくなるものと言うよりは、不思議と自分が何かを考える上での参考と言うか、何かしらの支えになっているような気もする。

 恐らくだが、Aさんは文章とかを書くのが好きなタイプだったと思う。しかし、これは完全に想像だが、恐らくAさんは日記などを書いたりはしていなかったと思う。そう思う理由としては、まだ小学5年生の時点では、自分の内面に目を向けて記録しようとする人が少ないと思うからだ。

 今はブログタイトルにもあるように、とある読み物を書くために、色々な日記や自伝の類も読んでいるのだが、『アンネの日記』が書かれたのはアンネ・フランクが13歳になってからだし、『二十歳の原点』が書かれたのも高野悦子が14歳になってからで、巷に数多くある自伝などへ広げて考えてみても、小学生辺りの記憶というのはどうもはっきりしていないことが多いように思う。

 もちろんこれは想像なので、ひょっとしたらAさんは日記の類を書いていたかもしれないが、どちらにせよ自分の気持ちをそれなりに伝えられるようになる前に亡くなってしまったのは間違いないと思うし、やはりそれは残念に感じる。

 書いていて少し妄想が過ぎるので、今日はここまでにしたい。