経験的事実と論理的推論から何かをやりたい人。

『この世界の片隅に』を読み解くための『現代現象学』(1)

 

 

 

 

 『この世界の片隅に』については、自分なりの読み解き方で、まとまった文章をどこかで書きたいと思っていた。映画を最初に観たのは2016年11月16日。前情報が少ない割にやたらネットでの評判が良く、片渕監督のインタビューを読んだらやけに理路整然としていて、恐らく良い映画なのだろうと期待して観にいった。原作は未読だったし、片渕監督のことも全く知らなかったが、公開1週目で観に行けたのは、今にして思えば幸運だった。

 読むペースを変えられる漫画などと違い、映画は観客を時間的に拘束してしまう所があるが、その2時間はあっという間に感じられた。上手く観せることに成功している映画だと思った。冒頭で子供のすずさんが風呂敷を背負う描写の丁寧さを観た時点でもこだわりを感じたし、日常生活の細かな描写もリアリティを感じた。しかし、こうした映画の特徴だと思うのだが、観た直後は感想を言いにくく、素直に好意的な評価をしていいのかも判断できなかった。

 

 映画の好みというのは本当に人によって分かれるもので、今まで映画好きの人には何人も会っているが、好みが合って話をしている光景をほとんど見たことがない(ラジオとかでコメンテーターによって評価が割れることを考えればいいかもしれない)。エヴァ好きやスターウォーズ好きとかで話が合うのはまだ分かるのだが、単に「映画好き」といった場合には、もっと細かくヒューマンドラマ好きとかグロいホラー好きとかに分かれたりしてしまう。自分は大学で映画サークルに入っていたことがあり、それ以降も映画好きの人には度々会うのだが、「好きな映画」の話の噛み合わなさにはなかなか辛いところがある。かなり主観的な推測ではあるが、純粋に映画好きの人は一人で映画を観ることに抵抗がないばかりか、むしろ気楽でいいと思っている節があるように思う。

 それに関連して、日常会話で「一番好きな映画は何?」という質問にはかなり困ってしまう。物語だけでなく、照明や音響といった演出がいい映画もあるし、異なるジャンルの映画を比べて好きな映画を言っても、「それって自分の好みじゃないの」とか思われて悲しい思いをしたりする。あまり有名すぎる映画を答えてもつまらないし、白黒映画とかを答えたら逆にマニアックすぎると思われるので、適当に最近観て良かった映画を答えたりする。しかし、実際に一番好きな映画というのを考えてみると、どれも一長一短あって難しいというのが本音なように思う。

 

 その点、『この世界の片隅に』が異常だったのは、自分自身もそうなのだが、他の人の感想を見ても、批判的意見がとても少ないということだった。そして感想を見ていると、「戦争は良くないと実感できた」とか「日常の大切さを理解できた」というように、十人十色の捉え方で共感されているように見えた。

 

 しかし、よく考えてみると、確かにあの映画は時代考証もアニメーション表現も学術研究並みに凄かったが、直接的なメッセージを読み取れる場面はあまり無かったのではなかろうか。しかし、それならばなぜ、料理や洗濯をする、空襲警報が鳴るといった事実の羅列から、観客に様々な感情を抱かせ、平均的にも高い評価を得られたのだろうか。「この映画について言葉で語るのは難しい」という感想もよく見たが、個人的にまず考察すべきは、時代考証やアニメーション表現などではなく、「あの映画における事実の羅列からどうして様々な好意的反応が生まれたのか」という点ではないかと思うのだ。また多くの人が共感したということは、『この世界の片隅に』には、多くの人に共通するものの見方や価値観が隠れているのではないだろうか。そこで、この記事では「現象学」という考え方を元にその点を考察し、逆にこの映画を元に現象学の紹介もしてみたいと思う。

 

 

 現象学については、歴史から話すととても壮大になってしまうのだが、ひとまずはそれ以前の西洋哲学の欠点を克服する形で生まれた、というのが自分の理解だ。伝統的な西洋哲学としては、特にプラトンに始まる形而上学が有名だと思う。形而上学では、コップや机といった有形のものや、芸術や政治といった無形のものに対して、「イデア」などの真の姿が存在し、その本質的な概念から物事を理解していく、というやり方を取る。少し違和感のある考え方だが、その後のアリストテレスもその思想をある程度踏襲し、やがてキリスト教神学とも結びつき、伝統的な思考法として近世まで受け継がれることになった(とは言え現代でも、「究極の方程式」とか「芸術は妥協の連続である」などという場合には、暗に「真の姿」が想定されているかもしれないが)。

 とにかく、そうして現実世界から離れた超自然的原理を仮定し、そこから演繹的推論によって「論証」するという思考法が、ヨーロッパでは2000年以上も続いてきたのである。経験的事実による「検証」や、観測結果の不確実性などについても、中世以前の人々はあまり注意していなかったようだ。例えば古代ギリシャアリスタルコスは、様々な天体の観測結果から、太陽と月の直径と距離を計算しているが、観測結果の精度が少し悪かったために、実際の値とはかなり離れた結果を導いている。数学的推論は合っていたが、数値的結論が全く違ってしまったのだ。もちろん、当時は観測精度に限界があるし、統計や誤差評価の方法なども無かったと思うが、あえて現代の目線で見てみると、科学の手法を生み出す大変さも分かって面白い。

 

 科学的探求ですらそんな状態だったので、哲学など他の学問もツメの甘い部分が多かった。例えばデカルトは、一般的には近代哲学の祖とみなされており、「我思う、故に我あり」という言葉はあまりにも有名だろう。しかし、自分の存在は疑えないとしても、知覚から得る世界の情報まで正しいとは限らない(実際、人間の認識能力には限界がある)。そこでデカルトは、「理性」という概念を持ち出して、その理性でもって世界を観察すれば、世界の正しい知識を得られると考えた。これだけ聞くと現代的にも感じるが、実はデカルトは敬虔なキリスト教徒でもあって、神の存在証明なるものまで行っている。そして、「理性」の信頼性も神に求めている節があり、これがその後の啓蒙思想にも続いていくことになる。本当に神が背景にいれば人間の判断も間違えようがなさそうだが、神を根拠にして「理性的に」判断を行うというのは、あまり論理的な主張とは言えないだろう。

 また、「自我」という概念もそこまで絶対的と考えるのは無理があるだろう。ある人の物事の考え方は、その人がいる文化や言語などの影響を受けてしまう。現代人であれば、肉を食べる時には加熱調理して、何か調味料を付けようなどと考える。しかし、原始時代にタイムスリップして生まれた人なら、ほとんど肉をそのまま食べることしか考えられないだろう。そうしたことから現代的な思想では、人間個人よりもむしろ文化や制度のような「構造」が先にあるという思想が生まれた。しかし、文化や言語なども人間がいなければ生まれないものであって、鶏が先か卵が先かという話にも聞こえてしまうし、そうした構造の存在を絶対視してしまうのも本末転倒と言えるだろう。

 ところで、「自我」と「構造」という語句は、『この世界の片隅に』の読み解きにも重要な語句と思われる。この映画で重要な鑑賞ポイントと思われるものに、「片隅」と「世界」の関係がある。この映画は主に主人公のすずさん視点で描かれており、それ以外の視点はなるべく排除されている(皆無ではないが)。これにより物語は、すずさん視点から世界の動きが垣間見えるように構成されている。物語の舞台は基本的に「片隅」が中心であり、一方で「世界」はすずさんの日常風景などを通じて語られるのである。しかし、そもそも私たちが関わる「世界」にしても、形ある実体として存在するというよりも、範囲の限られた「片隅」から窺い知るものなのではないだろうか。つまり世界とは、沢山の片隅が集まって出来ているのではということを、この映画から考えることができるのだ。そして、すずさんという一人の片隅の存在は、同時に世界を構成している一部でもあり、単に受動的に戦争を体験するだけでなく、戦いへの参加などを通じて世界に働きかけようともするのである。

 

 

 さて、19世紀末以降になって、それまでの観念的な思想の潮流に穴を開けた人物にニーチェなどがいるが、その中で新たな哲学(現象学)を創始したのがフッサールである。現象学とは一言で言えば、主観的な経験を起点にして様々な問題に答えようとする学問だ。例として科学における存在論を考えてみる。ニュートンの運動法則というものがあるが、この法則のみを見ればかなり抽象的で、その法則自体が実体あるものとして存在するかは分からない。しかし、この法則の正確さは、適切な検証を行うことで経験的に確かめることができる。物体の落下速度を計測したり、機械の設計に応用したりして、上手くいくかどうかを見ればいいのである。これがアリストテレスの場合だと、「物体運動は力を与え続けなければ止まってしまう」という考え方をする。日常的な感覚では「定性的に」見てこの考えも合っていそうに思える。人工衛星ですら時間が経てば高度が下がって落ちてくるのである。しかし、自然現象をよく観察・検証すると、慣性の法則などを仮定して、ニュートン力学で考える方が、物体運動を「定量的に」説明できるようになる。

 ひとまず一例として存在論を挙げてみたが、現象学が扱うのはそれだけではない。価値判断の正しさや、他人の心の問題についても、経験に基づいて分析を行う。とりわけ個人的に役立っているのは、2017年8月に出版された『現代現象学 経験から始める哲学入門』という本だ。なるべく日常的な経験から哲学的問題を考えていて分かりやすく、かなり最近の文献が豊富に引用されているのも良いと思う。

 

 現象学の重要なワードとしては、「志向性」がある。例えばコップや机を見た時、自分の意識はコップや机といった対象に向かっている。では志向性とは何かしらの対象に向かう意識なのかと言えば、そうとも限らない。誰かがドアをノックした時、その様子から母親かと予想したら、父親だったという経験を考える。この場合、志向の対象は母親だったが、実際にドアをノックしたのは父親だったということになる。このように、志向性には過去の経験などから未知の経験を「先取り」したり、あとでその先取り内容を「正当化」したりする上でも、重要な役割を果たしている。

 これは、『この世界の片隅に』にも応用が利く概念ではないかと思う。すずさんは少し夢見がちな少女で、かつ現実には流されて生きる節があるが、戦争の影が迫っても、しばらくはすずさんに重大な危機が訪れることはない。やがて観客も含めて、料理や洗濯という日常の光景を見せられるうち、こうした生活が「普通」であると感じられるようになる。しかし映画の後半、一線を越えてすずさんが被害に直面した時、「当たり前の日常が続く」という先取りの観念が崩れ、精神的な迷いの世界に入っていってしまう。

 志向性の働きによって確かめられていく「普通」という概念は、自分が何かを考える際の基盤にもなるものである。それが崩れるものだと分かった時には、生きることの意味すら問われることもある。こうしたことは1945年の太平洋戦争終結時のほか、2001年の米同時多発テロや、2011年の東日本大震災の際にも見受けられた。とにかく涙が出たとか、何も手につかなくなったという話はしばしば耳にするし、そうした出来事がきっかけで生まれた書籍や音楽などを挙げれば枚挙にいとまがない。

 

 

 その2に続く。

irigata.hatenablog.com

 

 

  

この世界の片隅に 劇場アニメ絵コンテ集

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現代現象学―経験から始める哲学入門 (ワードマップ)

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現象学という思考: 〈自明なもの〉の知へ (筑摩選書)

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反哲学入門 (新潮文庫)

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科学の発見

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「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)

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映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

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