経験的事実と論理的推論から何かをやりたい人。

『この世界の片隅に』を読み解くための『現代現象学』(2)

 その1からの続き。

irigata.hatenablog.com

 

 

 それでは、現象学では「美しさ」や「正しさ」などの価値については、どう考えるのだろうか。経験に基づいて価値を考えるというのは、あまり馴染みのない考え方かもしれない。まず一例として、『この世界の片隅に』の感想を一言で言いづらい理由として、「あまりにも多様な感情を抱かせるから」だという意見を取り上げたい。

 これはこの映画にそれだけ、様々な感情を抱く場面があったということだろう。誰かのしょうもない失敗を見た時、空から大量の爆弾が降るのを見た時などに、個人差はあれど人間は何かしらの感情を抱くだろう。思わず笑った時には「笑える」や「楽しい」、恐怖を感じた時には「怖い」や「悲しい」と感じる。こうした「感情」は特に思考によって生まれるものではなく、自分の意図とはほとんど無関係に経験されるものだ。

 そしてその感情は、物事の真善美を判断する時にも重視されるのではないだろうか。世間的に価値が高いと言われる芸術を見ても何も感じなかった場合、個人的にはその芸術に価値がないと判断するだろう。逆に世間は評価していないが、自分は価値を感じるものが存在することもあり得る。重要なのは、価値について語る場合、現実世界を越え出た超自然的原理としての「真善美」を前提にするよりも、現実の知覚や感情が価値の土台を成していると考えた方が、日常の経験に即して考えやすいということだ。安易に「美しい」とか「正しい」といった言葉で物事の価値を語ろうとすると、その価値の背景が見えにくくなってしまうが、価値判断をするためには、先に何かを経験する必要があるはずだ。

 哲学の世界では、「~である」から「~すべき」は導かれないとして、事実と価値は区別しなければならないという考え方もあり、「ヒュームの法則」という名前まで付けられている。確かに、事実から価値を導く時には、まず例外なく主観が入ってしまう。つまり、論理的推論としては間違っていることになる。しかし、そこで議論が終わってしまうと、普段日常的に行っている価値判断の過程を考えることができない。そうした問題にもアプローチできるのが、経験的事実を起点とする現象学の考え方なのである。日常生活での楽しみや戦争の被害などを見て幸福や不幸などを感じることは、例外や個人差はあるだろうが、ごく一般的な経験なのではないだろうか。すると、何かしらの物事に価値を見出す経験は、個々人の主観的な「認知」に関係していると考えられる。そして『この世界の片隅に』では、様々な観客に様々な感情を経験させる場面が、緻密に散りばめていたと言えるのではないだろうか。

 

 少し話は逸れるが、他に安易に「還元」されていると思う言葉として、「日常」と「戦争」という単語も取り上げたい。『この世界の片隅に』の感想として、「日常の中に戦争の影がじわじわ入ってくるのが怖かった」というものを見たことがある。しかし、そもそも日常や戦争という単語は何を指しているのだろうか。

 これについても、まず日常や戦争という概念が先に存在している訳ではないだろう。料理や洗濯といった行為などをまとめて「日常」、軍艦や爆弾による戦闘行為などをまとめて「戦争」と言っているはずである。それがいつの間にか「日常」や「戦争」という記号で物事が語られるようになったのではないか。「日常の中に戦争が入ってくる」という表現は、そうした記号的表現が物事をうまく区別できず、機能していない状況から生まれているのではないだろうか。『この世界の片隅に』に描かれるものの多くは、日常にも戦争にも関係があるものとして登場していたはずだ。そうは言いつつも、この記事でも日常や戦争という語句を多用してしまっているが、あくまでもそうした語句は、様々な物事をカテゴライズするための語句だと考えた方がよいと思う。ある語句がどう定義され、どう説明に使えるかという問題は、政治学などに触れる時にもよく疑問に思うのだが、記号としての言葉の問題はしばしば無視されがちな気がしてならない。

 

 

 

 そして、この映画を語る際にしばしば取り上げられるのが、人生についての(どう生きるべきかなどの)問いである。幸運にも『現代現象学』の中でも、「人生の意味」を問う章が設けられている。哲学という学問は、意外にも人生について考察することが少ないのだが、この本では珍しくストレートに扱っている。人生の意味というのも、論理的推論だけでは恐らく何も語りようがない。あるいは、人生に生きる意味などない、目的も存在しないという、ニヒリズム的な結論を導きがちである。実際、ある事実から「論理的に」何らかの価値を導くのは、ほとんど不可能だろう。

 だがそうは言っても、距離を置いてはならないと感じるものが、誰にでもあるのではないかと本では問う。親にとっての子供や、芸術家にとっての芸術が例えばそうであり、それは『この世界の片隅に』にも通じるところがあるだろう。径子さんにとっての晴美ちゃんや、すずさんにとっての絵を描く行為がそうである。これは論理的推論というよりは、実際に何に価値を感じるかという「認知」を元にした考え方と言えるだろう。とはいえ、そうした大切なものが失われる可能性についても考えなくてはならない。人生の「脆さ」を前にして、なおも意味ある人生というものを考えることはできるだろうか。

 

 これは、「哲学を学ぶ意味」にも通じる問いである。人間は普段の日常的な経験から、様々な推測をしながら生活している。しかしそうした推測は、当然間違える可能性がある。それは人間が不完全な存在だからであるが、とは言え「世界に確かなものなど何も無い」と認める必要もない。恐らく論理的推論「のみ」を頼る限りでは、そういう思考に陥ることもあるだろう。それでも、「経験そのもの」が存在することは疑いようのない事実のはずだ。そこから推測できることは無数にある。それでも強硬に「世界に確かなものなど何も無い」と言うならば、店に行けば食品が売ってるから買いに行こうと考えるような、日常的な推測も無意味になる。しかしそうした推測は、大抵の場合当たっている。仏教でいう涅槃の境地にでも至れば別かもしれないが、まず間違いなくほとんどの人間は、日常的な経験まで疑うことは不可能だろう。ただ、あくまでも経験する限りでの世界が存在するという結論は、ある意味で信仰に近いものを含んでおり、態度が哲学を学ぶ前に戻ってしまうことにもなる。

 しかし、例えば科学の驚くべき整合性などを考えても、経験を元に構築される世界像は、現実の世界と近似的であれかなり一致している、と考える方が合理的ではないだろうか。物を投げれば加速度的に落ちること、体には血液が巡っていることなどを疑うと言うのであれば、きちんとした「疑うべき理由」も示すべきではないのか。それでも頑なに「物を投げれば落ちるという経験も信用できない」などと言うならば、試しに崖の上から飛び降りてみればいい。飛び降りれば地面に落下し、怪我をすれば血を流すはずだ。飛び降りるのを躊躇うのなら、経験的事実を多少なりとも認めていることになる。それでも「経験的事実は嘘かもしれない」と言い張ることはできるが、たとえ五感で感じる経験が幻覚のようなものに過ぎないとしても、やはり「経験そのもの」まで疑うことは難しいだろう。不確かなことがあることは認めても、何も語りえない訳ではないというのは、そういうことである。

 そして、こうした立場には生きる上でのメリットもあると考えられる。まず人間の不完全さを自覚した者は、物事についての真理を手にしうると考える独断論に陥ることがなくなる。また、経験を通じて事実や価値の存在を認めるならば、事実や価値について何も語りえないと考える懐疑論をも退けることができる。そして、そうしたことを了解した人々は、やがてそこから他者と共通了解を作っていき、コミュニケーションを図ることも可能なはずである。

 さてここで、『この世界の片隅に』に戻ってみよう。先程の結論を振り返ってみると、自らの不完全さを自覚しながらも、この世界に生きることを受け入れる姿勢とは、まさしくこの映画のラストにも通じる姿勢なのではないだろうか。すずさんを含む登場人物たちは、恐らく独断論懐疑論からはかなりかけ離れた立ち位置にいたはずである。また、あの映画によって感情を動かされたと考える人々は、具体的にどのような場面でどう感動したかを共有することで、互いに相互理解をしていると考えられる。

 

 

 話をまとめよう。現象学においては、人々が見出す様々な価値の背景には、経験的事実が基礎にあると考える。逆に、現実離れした観念的な「真善美」については、究極的には考えない。一方、『この世界の片隅に』では「一言で語れない」といった感想をよく見たが、これは感想を簡潔な記号的表現に還元しようとするから難しくなるのではないか。多くの「片隅」が集まって「世界」が出来ていることを理解したならば、物事の大枠をいきなり掴もうとするのは避けるべきだろう。それよりは、事実から価値を見出す経験に注目し、映画でどのような感情をどの場面で経験したかを丁寧に追う方が、感じたことを上手く説明しやすくなるのではないだろうか。そして、この映画を通じて人生の意味をも問う時、人間の不完全さを認めながらも生きることを受け入れる姿勢が、この映画を読み解く重要なヒントになるのではと考えている。

 

 映画における事実の羅列から価値が生まれる現象を考察するというので、できればモンタージュ理論やコンティニュイティ(連続性)や意味論・語用論などについても書きたかったが、このくらいにしておきたい。断片的な話は以下を参照のこと。

 

 

 

 

 

 前々から映画などを語る際に、「雰囲気がいい」とか「打ちのめされる」とか「胸が張り裂けそう」とか「言葉で言い表せない」などの記号化された言葉に還元することには違和感を感じていた。『この世界の片隅に』の中身を具体的に分析するまではできなかったが、前提となる話はできたのではと思う。

 

 

 

<参考>
片渕須直監督, こうの史代原作, 『この世界の片隅に』, MAPPA (2016)
この世界の片隅に」製作委員会, 『この世界の片隅に 劇場アニメ絵コンテ集』, 双葉社 (2016)
植村玄輝他編, 『現代現象学 経験から始める哲学入門』, 新曜社 (2017)
田口茂, 『現象学という思考 〈自明なもの〉の知へ』, 筑摩書房 (2014)
木田元, 『反哲学入門』, 新潮社 (2010)
S. Weinberg, 『科学の発見』, 赤根洋子訳, 岩波書店 (2010)
A. Sokal, J. Bricmont, 『「知」の欺瞞』, 田崎晴明他訳, 岩波書店 (2012)
富野由悠季, 『映像の原則 改訂版』, キネマ旬報社 (2011)

 

 

  

この世界の片隅に 劇場アニメ絵コンテ集

この世界の片隅に 劇場アニメ絵コンテ集

 

 

現代現象学―経験から始める哲学入門 (ワードマップ)

現代現象学―経験から始める哲学入門 (ワードマップ)

 

 

現象学という思考: 〈自明なもの〉の知へ (筑摩選書)

現象学という思考: 〈自明なもの〉の知へ (筑摩選書)

 

 

反哲学入門 (新潮文庫)

反哲学入門 (新潮文庫)

 

 

科学の発見

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「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)

「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)

 

 

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

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