経験的事実と論理的推論から何かをやりたい人。

『ズートピア』から考える民主主義のジレンマ(1)

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 ズートピアの感想を探していると、あれは「偏見」や「多様性」について描いた映画だ、といった内容をよく見かけた。確かにそうした要素があることは間違いないと思う。しかし、単に「一人一人の個性を認めよう」という内容なら、他にも例を沢山挙げられそうだ。けれども今回、自分がわざわざズートピアを取り上げるのは、「多様性を尊重するプロセス」にも突っ込んでいる点が、他の文芸作品と比べても特異に思えたからだ。実際の社会でそれをどう実現するのかという問いが、子供向けと思われるディズニー映画で描かれていたのは、自分にとって新鮮な驚きだった。

 ただ、あの映画の展開について冷静に考えると、純粋にハッピーエンドとは言い切れない所があるのではと思う。というのも、明確な「敵」が設定されており、多様性の尊重を謳うような映画において、排他主義的な信条を持った「敵」の扱いが少し残念に感じたからだ。当然かもしれないが、多様性を尊重するのであれば、排他主義的な考えは排除されることになる。しかし、ただ一方的に排他主義者を排除するズートピアの社会は、多様性が尊重されていると言えるのだろうか。

 

 現実の社会に目を移すと、こうした問題はますます浮き彫りになってくる。ズートピアが公開されたのは2016年春のことだが、その直前の2015年11月13日にはフランスで同時多発テロがあり、2016年6月23日にはイギリスで国民投票によるEU離脱が決定され、2016年11月8日にはアメリカで自国第一主義を掲げるトランプ大統領が当選するなどした。ひとまず、単に排他主義を敵視するだけでは、多様性が尊重される世界になることは無さそうだ。

 偏見を無くしたり多様性を尊重するためには、他者との相互理解が必要不可欠だろう。しかし現実を見ると、そんなことはとても無理なようにも見える。日本でしばしば熱くなる中国韓国との問題を挙げてもいい。日本と中国韓国との経済的な結びつきはかなり強いが、その一方で政治的に裏切られる可能性はいつでも否定はできず、それでこそ相手を疑うことにも意味があるのだろう。他者(他国)を全く疑わずに関係を築くことを期待するのは、恐らく現実的ではない。

 

 

 ここで一つの極論として、「そもそも他者と無理に関わる必要はない」という考え方をすることができるだろう。社会を作る必然性はないし、一人で生きていくことも不可能ではないはずだ。自然界では単独行動する生物も珍しくない。社会は個人に様々な利益を与える一方、多くの制限も課すし、守らなければ制裁も加える。多くの人は生まれた時から何らかの共同体に属しているが、特に選択の自由があった訳ではない。では、他者と何らかの関係を作ることは、本当に利益になるのだろうか。

 

 そこで考えたいのが、「自然状態」という概念だ。自然状態の定義については多くの考え方があるが、今回は囚人のジレンマゲームを話に使いたいので、自然状態を「ゲーム的状況」と置き換えて考えよう。人間の利他性を無視するつもりはないが、仮に人間を「自分の利益のみを重視する利己的な存在」と考えた場合、待っているのは闘争である。その場合、他者と約束をまともに結ぶ意味はなく、常に相手に裏切られることを想定し、時には自衛のために他者を攻撃する必要もあるだろう。いわゆる、「万人の万人に対する闘争」の状態だ。ズートピアの冒頭でも、元々は肉食動物と草食動物が絶えず争い合っていたことが説明されるが、各人の行動があまりにも制限されていない世界では、安心して生活することは難しそうだ。一旦は人間の社交性を考慮して、集団の方がより良い利益が得られることは認めたとしよう。しかし、約束を結んで意味があるのは周囲が協力的な場合に限られる。誰も約束を守らないなら、自分も守る意味はない。そこで、対策案として考えられるのが、何らかの共同体と構成員を決め、集団の統率を取るやり方である。

 共同体を作ったとしよう。次に考えるべきは、誰が統治すべきかという問題だ。差し当たり、これは共同体を作った構成員全員が参加して、共同で統治することが思いつく。しかし、これに対する反論がある。例えば哲学者のプラトンは、民主主義を批判したことで有名である。と言うのも、直接民主制を採用していた当時のアテナイでは、酷い衆愚政治がまかり通っていたのだ。メロス包囲戦という戦いではメロス人を降伏させた後、男は全員死刑、女子供は全員奴隷にするという提案を可決したりしていたのである。プラトンはこれに対して、政治の特別な訓練を受けた「哲人王」に政治を行わせることを提案している。自然状態をゲーム的状況と仮定した場合には、この考え方も説得力を持つだろう。構成員が自分の利益を優先しているような共同体では、意見がまとまらなかったり、感情論で物事を決めてしまうことも多くなると思われるからだ。特別に訓練された専門家に問題を委ねるよりも、一般大衆による政治が上手くいくと考える理由はあるのだろうか。

 人間の歴史上、確かに寡頭制は何度か採用された。中世の封建制などがそうだし、共産主義もそういう面がある。しかし、現代ではもはや寡頭政が採用されにくくなっている。というのも、結局は寡頭政で問題を起こさないことは難しく、しばしば失敗してきたからである。自然状態は行為の制限が無さすぎるがゆえに闘争を生んだが、制限が強すぎる独裁制ももう一方の極にある不幸な状態だ。個人の「自由」をどこまで制限すべきかという問題はここでは保留するが、とにかくも政治の対象は構成員全体である。一人一人が何を望んでいるか、一番よく分かっているのは本人のはずであり、万人の希望を哲人王がいちいち把握するのも不可能だろう。そうなると、構成員も政治参加すべきという考え方が説得力を持ってくる。

 

 

 さて、民主主義の定義については後回しにしてしまったが、今は素朴に「意思決定などは共同体の構成員全員で行うべきだ」という思想だと考えておこう。しかしこれは、単に構成員の意見を集約すれば済む話ではない。それについて考えるために、再び囚人のジレンマゲームを例に出してみよう。

 10人に対して10万円の賃金が用意されている時、構成員が自分の利益のみを優先して良いのなら、10人全員が自分だけ10万円を貰えるよう要求することになる。しかし、これを採用することは不可能であり、普通は「平等」に1万円ずつ配ることになるだろう。この場合、一人一人の「10万円ほしい」という要求は「特殊意思」と言い、それを単純に足し合わせた「10万円×10ほしい」という要求は「全体意志」と言う。そして、現実的に全員の要求を汲んだ「1人につき1万円ほしい」という要求は「一般意志」と呼ばれる。哲学者のルソーは、特殊意思を単純に足し合わせても一般意志にはならないと言ったそうだが、自分はそれを今書いたような例によって理解している。

 さて、上では単純な資源の配分問題を考えたのだが、現実にはもう少し複雑な問題を孕んでいる。例えば、10人が平等に仕事をしたのではなく、誰か一人に大きな責任がかかっていた場合、10万円を平等に分けることは「公平」ではないかもしれない。全員が納得できる一般意志なるものが常に存在すればいいのだが、そうでなければ全会一致の結論を出すことは難しいだろう。一般意志は実際には、誰かに代弁されてしまうものでもある。そうなると、本当に存在するか分からない一般意志を構成員に強制した場合には、民主主義はすぐさま全体主義へと変化してしまうかもしれない。例えば、共同体全体の利益のためには、時として進んで犠牲も払うべきだ、という風に。これは愛国主義的な考えと相性がいいだろう。

 

 また、意見を集約するための方法に多数決があるが、これにもいくつかの大きなジレンマがある。多数決の根本にあるのは、なるべく多くの人が幸福になるべきだという「最大多数の最大幸福」の考え方だろう。これは功利主義とも言われる。まず始めに、有名なトロッコ問題について考えてみよう。

 暴走する列車の先に5人の作業員がいる。このままだと、電車は5人全員をひき殺してしまう。一方、電車の進行方向を変えて待避線に進めば、そこにいる1人の作業員をひき殺すだけで済む。この時、路面電車の運転手はそのまま5人を死なせるべきか、それとも向きを変えて1人を死なせるべきか、という問題である。

 この問いについて一般的には、向きを変えて1人を死なせる方がまし、と考える人が多いようである。しかし、人によっては5人を犠牲にすると言う人もいる。理由は例えば、方向を変えると意図的にその1人を殺すことになるが、何もしなければ事故になる、というものがある。それに関連した問いとして、5人の作業員を救うために、陸橋に立っている1人を突き落として電車を止めることは許されるか、という問題もある。こうなると、わざわざ人間を突き落としてまで電車を止める行為には賛同しない人が多いだろう。要するに、人間の正義の基準としては、幸福になる「人数」だけでなく、幸福のための「手段」も重視することがよくあるのである。また、1人の方にいるのが自分の子供だったら、1人の方にハンドルを切ることは難しいかもしれない。そうなると、具体的にどんな人を犠牲にするかという「対象」についても、大きな判断材料になってくる。

 

 また、第1候補に1票だけを投じる単純多数決は、死票や票割れを生みやすいという問題もある。投票制度について研究する学問に社会的選択理論というのがあるが、例えばボルダルールという投票ルールを使うと、死票や票割れの問題を軽減することができる。また、ボルダルールやドント方式などで票を集計すると、投票ルールによってしばしば結果が変わることが知られている。そうなると、投票結果がそのまま民意を表しているとは言いがたいことになるだろう。

 また、何に対して投票するかも重要である。直接民主制の場合、人々は政策への是非を直接示すことができる。しかし、共同体の構成員全員が、全ての政策をいちいちチェックして、毎回全員で採決を取るのは現実的ではない。結局、一般的に採用されているのは代議制(間接)民主制が多いのだが、この場合には政策ではなく人間に対して投票を行うことになる。そうなると、何の政策を支持するかだけでなく、誰を信用するかということに大きな注意を払う必要が出てくる。

代議制民主制に関連して言えば、官僚機構の弊害に触れておくのも不自然ではないだろう。合理的に手続きを進めるために作られたはずの官僚制は、しばしば非合理的なことで悪名高いのである。

 

 加えて、先にアテナイ衆愚政治の例を出したように、安易な多数決による意思決定は暴走しやすい。ズートピアでも、恐怖の力を利用して、多数決で物事を決めようとするシーンがあった。また、集団で何かを行う時には、自分たちは正しいという感覚を抱きやすくなる。一度集団が暴走してしまうと、自浄作用も働きにくい。かつての大日本帝国の場合、陸軍・海軍・外務省で対外政策がバラバラだったり、決断を欠いた政治が戦況を複雑化させたりしていたが、その状況でも戦争を拡大することに賛成する国民は多かったそうだ。そして、その状況が変わるには300万人の死者を出し、敗戦するまで待たなければならなかった。

 

 

 その2に続く。

irigata.hatenablog.com

 

 

 

 

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