経験的事実と論理的推論から何かをやりたい人。

『ズートピア』から考える民主主義のジレンマ(2)

 その1からの続き。

irigata.hatenablog.com

 

 

 ここまでに、自然状態は理想的な環境ではないが、かと言って寡頭政では人々の意思を汲み取れないし、全会一致は実現する望みが薄く、多数決も正しい結論を得られるとは限らないことなどを見てきた。しかし、残されている問題はそれだけではない。


 ズートピアに話を戻すと、あの映画で分かりやすく描かれている問題の一つに、雇用機会の格差問題がある。形式的には肉食獣と草食獣との間に差別はないが、実際には力の強い肉食獣に有利な仕事が多いようである。ウサギで女の子のジュディはそうした状況に戦いを挑み、キツネのニックもやがては自分への偏見に向き合うようになる。もちろん、弱者が強者と同等の能力を手に入れるには、それ相応の努力が必要になるのだが。

 女性の雇用機会などを是正するための政策として、アファーマティブアクションと呼ばれるものがある。例えば、同じ成績の男女がいた場合、女性を優先的に昇進させる制度などが挙げられる。しかし、これは逆差別ではないかという反論もある。実際の所、同じ成績でも女性の方が優遇されるというのは公平ではない。けれども、この場合のアファーマティブアクションとは、女性の方が昇進の面で不利ということを前提にした制度であることに注意が必要だろう。

 

 ズートピアの場合でも、ウサギ初の警察官になったジュディは、ライオンハート市長から直々に、市中心部への配属を告げられる。これは草食獣のウサギに対するアファーマティブアクションと思われるが、逆差別とも取れるこうした措置は、ウサギへの処遇が改善されるまでの特別措置と捉えるべきだろう。アファーマティブアクションが施行されている状態は、ウサギにとっても好ましい状態ではないのである。

 しかし女性の昇進の場合には、より複雑な問題がある。というのも、子供を産めるのは女性だけなので、女性が出産の度に仕事から離れることについて、根本的に解決することは不可能と思われるからだ。誰でも何にでもなれるはずのズートピアでも、ウサギはウサギ以外にはなれず、キツネもやっぱりキツネでしかない。格差をどこまで是正すべきかという問題も、簡単に答えが出る訳ではない。

 

 

 政治参加とは結局のところ、かなり手間がかかるものだと言えると思う。ある程度の教育を受けた国民が、普段の生活から少しの時間を割いて、政治の状況をチェックしたりするのはコストがかかる。しかし、自分の権利が侵されないためには、権利を行使し続ける必要もある。権利を持っていることに胡坐をかいていれば、実質的に大きな不利益を被ることがあるのだ。例えば、若者の選挙の投票率が低ければ、政治家が若者向けの政策を重視しなくなる、というように。

 政治学者の丸山眞男は、民主主義とは「永久革命」であると言った。この世に民主主義が達成された国はないし、今後も永遠にない。民主化し続けることによって、民主主義はかろうじて民主主義でありえる。そして何より、民主主義とはプロセス重視、議論を重視する仕組みだと言うのである。

 丸山は福沢諭吉の研究をしばしば行っているが、福沢の言葉に「一身独立して一国独立す」という文章がある。これが特に戦後社会において、各個人が独立した主体性を持つべきだという主張に使われることがあったようだ。安保闘争や住民の反対運動は、そうした主体性を重視する思想があってこそ行動に移せるということである。しかし、アイデンティティの確立には「他者の鏡」が必要だとも言われる。実際、誰からの影響も受けずに主体性を確立できるとは考えづらい。主体的な個人というのは、小さい頃の経験や環境にかなり左右される部分があるのではないだろうか。

 時代が進んで学生運動が盛んな時代になると、感情的で過激な活動も多くなり、丸山すらも旧体制的だとして、厳しい批判を受けるようになる。そしてついには丸山は、大学をも追われてしまうのである。個人的にそのエピソードは、ズートピアにおいて社会を良くしようと警察官になったジュディが、社会の混乱を収められずに辞職するシーンを思い出してしまう。

 

  ここで再び、偏見を無くしたり多様性を尊重するために、他者と相互理解することは可能かという問いに戻ってみる。例えば結婚について考えると、始めから互いに権利を主張しあっているような関係では、とても上手くいっている夫婦とは言えないだろう。しかし実際、価値観の違いなどから離婚に至る夫婦は珍しくない。人間が相互にコミュニケーションを取り、互いに理解しあう社会を想像することは無意味なのだろうか。

 だが、人間は基本的に社会的な存在であり、他者と関わることを望むものである。もし意思疎通を図ることが完全に不可能だとしたら、そもそも他者と会話をしようとも思わないはずだが、実際にそうなることは少ない。丸山眞男は政治のコミュニケーションについて、「他者感覚」を持つことが重要だと言った。自分に反対する意見に耳を傾け、その意味を理解することが大事だと言うのである。これは言わば、権利を主張することは最後の砦であり、良心や愛情のようなものをまず大切にしようという意味にも聞こえるが、考え方として馬鹿にはできないとも思う。これも、ズートピアのラストにおける、ジュディのスピーチの内容を思い起こさせる。

 

 

 最近では、日本に住む在留外国人の数も増えてきた。高齢化が進んだ団地などに、子育て世代の外国人が移り住み、交流が無いままにトラブルが起きるという話も聞く。よくあるのはごみの捨て方のトラブルで、不燃ごみの日に粗大ごみを出すといった行為に悩まされるパターンなどがある。そもそも不用意に外国人を受け入れるべきでないという主張もあると思うが、逆に日本人がビジネスなどで出国することも当たり前になっている。年単位で海外へ行くことも珍しくなく、ある意味でお互い様の部分があるだろう。

  そうは言っても、これを書いている自分に誰かへの偏見が全く無いかと言えば嘘になる。例えば以前、友人が「ねじとかって今は中国で作るのだろうか」と言ったのに対して、自分は「まあねじくらい作れるだろ」と言ってしまい、「いくら何でも中国を馬鹿にしすぎだ」と諭されたことがある。また別の例もある。以前、聴覚に障害のある人とボーリングをしたことがあるのだが、何となくスポーツが苦手なのではと思っていたら、案外いい点を取っていて驚いたことがある。よく考えれば、ボーリングは個人戦だし、音に関係するスポーツではないのだが、自分の中で偏見があったことに恥ずかしくなってしまった。

 ズートピアを振り返ると、ニックを前にしてキツネ除けに手をかけようとしたジュディを思い出す。ジュディは差別を許さない性格のはずだが、無意識のうちにキツネへの恐怖心は持っていたのだ。しかし、残酷な話ではあるのだが、ステレオタイプや第一印象というのは役に立つこともある。例えば、髪を染めてピアスをしている若者と、教会にいる修道女では、パンク音楽が好きそうなのはどちらだろうか? あるいは、讃美歌が好きそうなのはどちらだろうか? こうしたイメージは偏見ではあるのだが、当たっていることも珍しくない。何より、そうしたステレオタイプを全く持たなければ、普段の生活にも支障を来すだろう。生物学的な違いを越えること、あるいは本能的に抱く感情を捨てることには、そうした難しさがある。

 

 

 また、民主主義を採用する共同体においても、共同体の外にいる人々をどう扱うかという問いは難問かもしれない。リンカーンの言葉を援用するなら、日本という国は「日本人の、日本人による、日本人のための」国家である。そこには外国人は考慮されていない。民主的なプロセスを経て日本の利益になると判断されれば、外国人にいくら迷惑が掛かろうと、それは議論の外である。メロス包囲戦の例で言えば、メロス人を迫害することが「アテナイ人にとって」利益になると民主的に判断されれば、それを民主的な理由で批判することは難しいかもしれない。トロッコ問題で言えば、例えば1人の日本人と5人の韓国人のどちらを救うか日本人が決定する場合、日本人ならば躊躇なく5人の韓国人を殺すべきことになろう。逆に、1人の韓国人と5人の日本人のどちらを救うか韓国人が判断する場合、韓国人が5人の日本人を殺す判断をしても、日本人はその行為を批判できなくなるかもしれない。

 現実には、外国人もある程度は保護される。これは国際法の観点から説明できるだろう。日本という国は「日本人の、日本人による、日本人のための」国家であり、韓国という国は「韓国人の、韓国人による、韓国人のための」国家である。しかし、だからと言って日本人が、韓国でまともに人権を与えられないようでは困る。結局のところ、「人道的な」理由によって外国人も保護するのが理にかなっているはずである。しかし、日本人であれば日本人をひいきするのは珍しいことではない。日本人と外国人を平等に扱うのは、心理的には難しいことかもしれない。

 

 ズートピアでは、最後に「Try Everything」という曲が流れる。失敗することはよくあるが、諦めずに何度でも挑戦しよう、といった内容の曲だ。これもまさしく、ジレンマを抱えつつもやるしかないという、民主主義をよく表した曲に思えてならない。 ひとまずは、物事の良し悪しを決めるのに多くの判断材料があることや、具体的にどういう問題があるかを自覚するしかないのだろう。

 

 


<参考>
B. Howard, R. Moore, 『ズートピア』, Walt Disney Animation Studios (2016)
J. Julius, 『ジ・アート・オブ ズートピア』, 徳間書店 (2016)
J. Wolff, 『政治哲学入門』, 坂本知宏訳, 晃洋書房 (2000)
T. Cathcart, 『「正義」は決められるのか?』, 小川仁志, 高橋璃子訳, かんき出版 (2015)
木田元, 『反哲学入門』, 新潮社 (2010)
R. Collins, 『脱常識の社会学 第二版』, 井上俊, 磯部卓三訳, 岩波書店 (2013)
坂井豊貴, 『多数決を疑う 社会的選択理論とは何か』, 岩波書店 (2015)
齊藤勇, 『イラストレート人間関係の心理学 第2版』, 誠信書房 (2015)
NHK, 『日本人は何をめざしてきたのか 第3回 丸山眞男政治学者たち』 (2014)
M. L. Patterson, 『ことばにできない想いを伝える』, 大坊郁夫訳, 誠信書房 (2013)

 

 

 

ジ・アート・オブ ズートピア: THE ART OF ZOOTOPIA (CHRONICLE BOOKS)

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